西側の鳥居と楼門 |
御霊神社(ごりょうじんじゃ)御由緒
御霊神社は「上御霊神社」「八所御霊」「八所御霊大明神」とも称します。
御祭神
六柱
崇道天皇(すどうてんのう)(早良親王・光仁天皇の第二皇子)
井上大皇后(いのえのおおえひきさき)(桓武天皇第一皇女・光仁天皇の皇后)
他戸親王(おさべしんのう)(光仁天皇の大四皇子)
藤原大夫人(ふじわらのたいふじん)(桓武天皇の皇子伊豫親王の母親)
橘大夫(たちばなのたいぶ)(藤原逸勢・書家 空海・嵯峨天皇と並んで三筆)
文太夫(ぶんのたいぶ)(文室宮田麻呂・筑前守に任ぜられたがすぐに解職された)
二柱
火雷神(からいしん)(上記の六柱の御霊の荒神)
吉備大臣(きびのおとと)(吉備真備)文太夫(ぶんのたいぶ)(文室宮田麻呂・筑前守に任ぜられたがすぐに解職された)
二柱
火雷神(からいしん)(上記の六柱の御霊の荒神)
相殿五社
三社明神(さんしゃみょうじん)四座
和光明神(わこうみょうじん)一座
御神紋
十六菊
創 基
延暦13年(793年)崇道天皇をお祀りして創基
創 建
延暦13年(793年)崇道天皇をお祀りして創基
創 建
貞観5年(863年)五座を祀り六座として創建
例 祭
5月18日(御霊祭)
境内摂社・末社
・神明神社
・福寿稲荷神社
・厳島神社
・花御所八幡宮
・大舞神社
・天満宮社
・多度神社
・貴船神社
・粟島神社
・白髭神社
・長宮三十社
所在地
京都市上京区上御霊前通烏丸東入 上御霊竪町495番地
境内摂社・末社
・神明神社
・福寿稲荷神社
・厳島神社
・花御所八幡宮
・大舞神社
・天満宮社
・多度神社
・貴船神社
・粟島神社
・白髭神社
・長宮三十社
所在地
京都市上京区上御霊前通烏丸東入 上御霊竪町495番地
ご利益
厄除け(厄払い・病気平癒・交通安全・旅行安全)・こころしずめ・家内安全・家業繁栄・安産・学業成就・書道上達
門前の京都市の由緒書とWikipediaを引用します。
この地には、はじめ付近住民の氏寺として創建された「上出雲寺」がありましたが、延暦13年(794年)の平安京遷都に際し、桓武天皇の勅願により王城守護の神として、奈良時代・平安時代初期に不運のうちに亡くなった六柱の神霊が祀られたと云われ、その後六柱の御霊の荒魂(神の荒ぶる魂の側面)を表す火雷神と吉備聖霊の二柱が併祭され、更に明治期に入り明治天皇の御願により祭神五社が増祀され、現在に至っています。
「上出雲寺」は平安時代にはすでに荒廃していたと伝えられていますが、現在でも境内からその古瓦が出土するそうです。
西門の警護の武士像 |
西門の警護の武士像 |
現在の本殿は、享保18年(1733年)に下賜された賢所御殿を復元したものと云われています。
本殿 |
本殿内陣 |
神楽殿 |
応仁の乱戦端の地
境内は「御霊の杜(森)」と呼ばれ、応仁元年(1467年)正月18日、失脚した管領の「畠山政長」と従兄の「畠山義就」(2人はともに室町後期から戦国時代前期の武将)の私闘が行われました。(後に「御霊合戦」と称されます。)
この戦いはその後、11年間続く「応仁の乱」の前哨戦となり、当社境内は「応仁の乱」の戦端の地として知られることとなりました。
境内に建てられている石碑には「応仁の乱発端 御霊合戦旧跡」と彫られていますが、この表字は「応仁の乱東陣総大将細川勝元」の後裔の「元内閣総理大臣細川護熙」の揮毫によるものです。
芭蕉の句碑
「松尾芭蕉」は、元禄3年(1690年)去来等の門人を伴い当社を参詣し、
「半日は 神を友にや とし忘」
の句を奉納しています。
境内摂社・末社他
長宮三十社厳島神社
神明社
福寿稲荷神社
四脚門(南門)
伏見城の四脚門を移築したものと伝えられています。
なお、楼門(西門)は江戸時代中期の寛政年間に再建されたものです。
絵馬所
牛車庫
江戸時代初期の慶長年間に後陽成天皇が上皇時代に寄進された伝えられています。現在の牛車が当時のものかどうかは不詳ということです。
清明心の像
国際児童年(1979年)にあたり、生命の尊重と子供たちの健やかな成長を祈り、中国宋代の学者司馬温公の故事に拠って建立されたということです。
西側の楼門前の京銘菓「からいた」の水田玉雲堂
創業文明9年(1477年)だそうです。応仁の乱が終息した年に創業しています。運命を感じます。
5月を除く毎月18日、境内でフリーマーケットごりょうさんの「さえずり市」を開いているそうです。出展者も随時募集中との事です。(2m×2mの1区画1500円)
アクセス
京都市営地下鉄烏丸線 鞍馬口駅下車 徒歩3分
京都市バス37系統 出雲路田原町バス停下車 西へ徒歩5分
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