2019年9月12日木曜日

大津の「鞍掛神社」には悲劇の皇子「大友皇子」が祀られています

滋賀県大津市衣川の「鞍掛神社」には、「天智天皇」の第一皇子で明治になってようやく「第39代弘文天皇」として歴代天皇に列せられた「大友皇子」が祀られています。
「大友皇子」は、天智天皇亡き後の権力闘争「壬申の乱」で叔父にあたる「大海人皇子(後の天武天皇)」に追われ、ここ「衣川」の地で自刃しました。


 鞍掛神社(くらかけじんじゃ)御由緒 


御祭神 
弘文天皇(こうぶんてんのう)=大友皇子

御神紋
十六菊

創 建
天武天皇元年(672年)壬申の乱の後(年代不詳)

新 宮
元慶6年(882年)第57代陽成天皇の勅命により社殿新宮
 
例 祭
7月23日(大友皇子の命日)

所在地
滋賀県大津市衣川2-28-1

飛鳥時代にクーデター「大化の改新」を成し遂げた「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」は、直ぐには皇位に就かずに皇太子として様々な改革を行うとともに、天智天皇6年(667年)国の中心を「難波宮」から「近江大津宮」へと遷都し、翌年の天智天皇7年(668年)ようやく皇位を継承し、「天智天皇(てんちてんのう)」として即位しました。同時に次期皇位継承者として弟の「大海人皇子(おおあまのおうじ)」を指名しました。

その後、天智天皇10年9月(671年10月)天智天皇は病に臥し、そのまま体調が戻らないため当初の指名どおり「大海人皇子」に皇位継承を打診しました。「大海人皇子」は天智天皇の打診を固辞し、出家のうえ吉野の山に籠ってしまいましたので、天智天皇は自身の第一皇子の「大友皇子(おおとものおうじ)」に皇位を継承することとしました。しばらくして天智天皇10年12月(672年1月)「天智天皇」が崩御し、「大友皇子」の即位が現実のものとなりました。

このことを聞きつけた「大海人皇子」は、やはり自分が皇位を継承するべきだとの思いが募ってきたため、挙兵して「大友皇子」を討つことに決して、「近江大津宮」の包囲網を敷いて、東国と琵琶湖の西岸からの2方向から攻め込みました。この戦いを後世「壬申の乱」と称します。

この戦いで「大友皇子」は現在の大津市瀬田・粟津の戦いで敗れ、随従の侍臣2名とともに大津市の衣川の本田の離宮まで向いましたが、衣川の地まで来たとき、更に現在の高島市にあった三尾城も落城したとの報告を受け、「もはやこれまで」と乗っていた馬の鞍を柳の木に掛け、自刃して最期を遂げたのでした。(諸説あります。)

結果して、「壬申の乱」では「大海人皇子」側が勝利して、天武天皇2年(673年)「大海人皇子」は「天武天皇(てんむてんのう)」として皇位継承し天皇に即位しました。

大津市衣川の地へ「大友皇子」に随従してきた「中村姓」の侍臣2名は、この地に帰農して、当社「鞍掛神社」の地において皇子の御神霊を奉斎して、1300年の間子孫まで伝えて日々奉仕してきました。

本殿
「鞍掛神社」は、元慶6年(882年)第57代「陽成天皇」の勅命により社殿が新宮され、その後保元元年(1156年)「源義朝」が同社殿で武運長久を祈願し、後に義朝の子「源頼朝」が文治元年(1185年)に社殿を改修したと伝えられています。

「大友皇子」は、明治3年(1870年)「弘文天皇(こうぶんてんのう)」の諡号を与えられ、第39代天皇として歴代天皇に列せられました。
「大友皇子」の画像検索結果
弘文天皇 資料画像(Wikipedia)
境内の旧社殿地
拝殿
境内社
神社標石
由緒書石碑

「鞍掛神社」から少し東側の田んぼの中の農道の端に小さな「地蔵堂」があり、その中には石地蔵が十数体安置されています。そして地蔵堂の中の説明には「弘文天皇(大友皇子)がここで自刃したという言い伝えがあり、以来1300年にわたり、侍臣の子孫である中村一族でこの地蔵をお守りしています」とあります。

地蔵堂と背景はJR湖西線
地蔵堂に安置された石地蔵
地蔵堂の中の説明文
「鞍掛神社」附近から地蔵堂を俯瞰(白い車の左側)

「鞍掛神社」では、毎年「大友皇子」の命日にあたる7月23日の前後に「侍臣であった中村家の子孫」を中心に近江神宮より神官と巫女を招いて「例祭」を行っているそうです。

神饌所
社務所
手水舎
「鞍掛神社」のある住宅地の入口に「鞍掛神社神社参拝道」の標石があります。(ゴミ集積所になっています。)

鞍掛神社参拝道の標識
悲劇の主人公「大友皇子」をお祀りした「鞍掛神社」は住宅地の片隅にひっそりと建っています。

ろアクセス
JR湖西線 堅田駅下車 徒歩20分



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