2019年9月10日火曜日

滋賀県大津市の「山ノ神遺跡」は「近江大津宮」遷都のための資材製造工場

滋賀県大津市一里山の住宅地に「山ノ神遺跡」はあります。ここでは、7世紀に「天智天皇」が大津市錦織の地に「近江大津宮」を築造した際に瓦などの工事資材を製造し、遷都後は中央政権の政務のために必要な器材等を製造していました。


滋賀県大津市一里山は、琵琶湖南端の瀬田の丘陵地に位置し、現在では京都・大阪のベッドタウンともいえる住宅地が広がり、またJR東海道新幹線、国道1号線や名神高速道路や京滋バイパスが通る交通の要衝の地でもあります。
「山ノ神遺跡」は、一里山の住宅地の片隅で発掘され、また地域の方達の熱い志で復元され、千数百年の悠久の歴史を今に蘇らせています。


大津市教育委員会の現地掲示から引用します。
「山ノ神遺跡」は、瀬田丘陵から琵琶湖にむかってのびる小丘陵の西側先端にあたり、古くから須恵器がみつかることが知られていました。
昭和54年、昭和55年から昭和59年、昭和63年の三度の発掘調査により須恵器等を焼いた窯跡3基と、工房跡と考えられる堀立柱建物6棟が見つかりました。また、不良品や窯内の灰をかきだした灰原が広範囲にわたって部分的には厚く堆積していることもわかりました。窯跡や灰原からは、多くの杯や壺、かめ等の他、硯や陶馬、陶棺等が見つかっています。
見つかった須恵器のかたちにより、7世紀中頃から末にかけて作られたことがわかりました。この時期は、近江大津宮が営まれていたころと重なっています。硯等が見つかっていることから、近江大津宮を始めその他の役所や寺院等にも「山ノ神遺跡」で作られた製品が送られたであろうと考えられます。また、ここで作られた陶棺は横尾山古墳群陶の墓でも使用されたと考えられています。
このように窯跡と工房跡が一緒に見つかった遺跡は全国的にみても珍しく、さらに、製品が使われた場所が推定できることにより、当時の様子を考えるうえで、貴重な成果を得ました。



大津市教育委員会の説明には出てきませんでしたが、この遺跡からは当時の瓦葺屋根の大棟の両端に付けられる飾りの「鴟尾(しび)」も見つかっていますので、「近江大津宮」の内裏の建物や周辺の寺院の瓦類を製造していたと考えられます。

「しび」の画像検索結果
資料写真 唐招提寺の鴟尾 (Wikipedia)

別の投稿で紹介しましたが、瀬田丘陵のもう少し上部の「びわ湖文化公園」の位置に、7世紀に古代たたら製鉄の工法で製鉄を行っていた「源内峠遺跡」もあることから、熱源となる豊富な森林資源のある瀬田丘陵で鉄や陶器製品を製造し、琵琶湖の水運で対岸の「近江大津宮」の建設現場へ資材を送り込んでいたという合理的なシステムが構築されていたということが分かります。

「源内峠遺跡」の製鉄工場址でも、地域の方達が遺跡を復元されて現地展示されていいますが、この「山ノ神遺跡」でも同様に地域の方達が登り窯を復元されています。地域の方達の熱心な取り組みには頭が下がります。

写真は復元された「登り窯」です。一部内部構造が透視できる構造となっています。

復元された登り窯
登り窯の焚口
登り窯の中の鴟尾の様子
登り窯の中の食器等の様子
登り窯を上部から見た様子
天智天皇は飛鳥から大津に都を遷すべく大津市錦織の地に都を築き、天智天皇6年(667年)に「近江大津宮」に遷都しました。 天智天皇はこの都で国の根幹を変える大変革を行いましたが、天智天皇10年(672年)にこの都で崩御したと云われています。天智天皇は息子の大友皇子に皇位継承し、大友皇子は弘仁天皇として即位しましたが、大海人皇子(後の天武天皇)が反乱を起こし(壬申の乱)敗れることとなり自刃しました。このことで「近江大津宮」も同時に都として機能を閉じました。結果して「近江大津宮」は5年間の短い間でしたが、日本の首都としての機能を果たしたのです。

地元の方達が作った展示施設があります。琵琶湖南部の遺跡を顕した地形模型などが展示されています。





「山ノ神遺跡」が発掘された地に小さな神社があります。「大山祇神社」の小さな祠は「萱野神社」の御旅所と云われています。



大山祇神社
日本の一時代を築いた「近江大津宮」の活動を支えた「山ノ神遺跡」は地元として誇れる遺跡として大切に守っていってほしいものです。

アクセス
JR琵琶湖線瀬田駅下車 徒歩15分


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