「小野道風」は、神通力を持って閻魔大王と親交のあったとされる「小野篁」の孫にあたります。
小野道風神社(おののとうふうじんじゃ)御由緒
御祭神
小野道風(おののとうふう)
御神紋
三ツ目
創 建
暦応4年(1341年)
創 建
本社である「小野神社」に建てられた「小野篁神社」と同時に、飛地境内摂社として創建されたものと考えられています。
境内摂社
文殊神社
樹下神社
八坂神社
例 祭
11月2日「糈(しとぎ)」祭
所在地
滋賀県大津市小野1222
ご利益
例 祭
11月2日「糈(しとぎ)」祭
所在地
滋賀県大津市小野1222
ご利益
厄除け・御菓子業の神様・書道と学問の上達
「小野道風神社」は、平安中期の書家で書道で政権の中枢の参議にまで昇り詰めたと云われている「小野道風」をお祀りしている神社です。この神社はこの地より400mほど北方にある「小野神社」の飛地境内摂社として、南北朝時代の暦応4年(1341年)に建立されました。これは「小野神社」境内摂社の「小野篁神社」の建立と同時期でした。
「小野神社」は別の投稿でもご紹介させていただいていますが、小野妹子が有力豪族小野氏一族の始祖をお祀りした神社で、神通力を持ってあの世の入口の裁判官とされる「閻魔大王」と親交があったと云われる「小野篁」をお祀りした「小野篁神社」を境内摂社としています。そして「小野道風」は「小野篁」の孫にあたります。南北朝時代のどういう時代背景で「篁」と「道風」をお祀りした社をほぼ同時に建立したのかは不明ですが、この時代になっても「小野氏一族」の権勢が強かったことは想像に難くありません。
本殿は、全国的にも珍しい切妻造、平入の建物で、重要文化財に指定されています。建物内部は建立当時のままですが、外部の建具等は修繕を加えられているそうです。柱を含め建物の木部の虫食いが進んでいて、穴だらけになっています。
「小野道風神社」は国道161号線の山側の小野の集落内を抜ける道路から少し坂を昇った高台にあります。
鳥居を抜けて階段を上がると、社殿が見えてきます。階段を上がり切った境内はシンプルに本殿と摂社、そして神楽庫があります。
本殿 |
本殿 |
本殿の「道風社」の扁額 |
本殿の鈴だけ金ピカです |
小野道風
「小野道風・寛平6年(894年)~康保3年(967年)」は、小野篁の孫で、父は大宰府の次官である大弐を勤めた「小野葛弦(おののくずお)」です。「道風」は書の実力を認められ、醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇の三朝で勤務し、参議まで昇り詰めました。
柳の木に一生懸命に飛び付く蛙の姿を見て、自らへのいましめとして発奮して努力を積み重ね、書道の道を極めたという逸話は有名な話です。この努力の結果、藤原佐理、藤原行成」とともに当時の「三蹟」と称され「書道の神」と崇められるまでになりました。
この逸話が広がったのは、江戸時代の浄瑠璃「小野道風青蛙硯(宝暦4年1754年)」からと考えられ、この話は戦前の国定教科書、戦後の道徳の教科書に採用されて、「努力は報われる」という教訓として、我々の知るところとなりました。
小野道風と柳に飛び付く蛙 資料画像(Wikipedia) |
「道風」はそれまでの中国の的な書風からの脱却を図り、穏やかな整った和様、日本的な書の典型として、和様書道の基礎を築いた功績でも高く評価され、「道風」の書風は長く後世まで尊ばれています。
「道風」はまた、菓子の体型を創造したことにより、「匠守」の称号を授けられ、菓子業の功績者に「匠」「司」の称号を授与する権限を勅許されていました。現代でも菓子業の老舗の屋号に「匠」や「司」を付けているのは、「道風」の時代の名残りとして受け継がれているものだと云われています。
摂社とその他の建物等
文殊神社
樹下神社
八坂神社
道風の銘が彫られた灯籠
鳥居の前に作られた「柳と蛙」
手水舎
携帯電話基地局と「小野道風神社」
神社の社地に隣接して携帯電話の基地局と無線鉄塔が建っています。時代を感じさせる風景です。
比良山花達院
「小野道風神社」の鳥居の前の高台の地に、「比良山花達院」が建っています。
写真左側が「毘沙門堂」、右側が「観音院」です。
中央の石碑には「比良山花達院」と彫られています |
右側の観音堂は「花達院」と称して、元は「比良山根本院」という寺院でしたが、「元亀年中の兵火により一時に灰塵と化した」ということです。「元亀年中の兵火」というのは、信長の比叡山焼き討ちだと思われますので、元は天台宗の大きな寺院だったのでしょうか、後に小野村に草堂を建てて観音様を安置したそうです。
観音堂の「花達院」扁額 |
毘沙門堂の扁額
アクセス
JR湖西線 小野駅下車 徒歩20分
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