NHKの大河ドラマ「八重の桜」で有名になった新島八重は、幕末の会津戦争で鶴ヶ城(会津若松城)に籠城して、新政府軍と戦いました。八重は幼いころから「ならぬことはならぬ」と教えられました。
新島旧邸は、同志社の創立者「新島譲」の旧邸です。洋風な外観と和洋折衷を取り入れた間取りと造作は、外国人宣教師W.テイラーの助言を取り入れながら新島譲自身が設計したものと伝えられているそうです。洋風住宅としては京都に現存する木造最古だそうです。
母屋
新島譲
新島譲は、天保14年(1843年)江戸の神田で安中藩士新島民治の子として生まれました。譲は元服後友人から貰ったアメリカの地図からアメリカへの憧れを抱くようになり、幕府の軍艦操練所で洋学を学びました。その後元治元年(1864年)アメリカへの渡航を画策し、函館港からアメリカ船ベルリン号でアメリカへの密出国に成功しました。
譲はアメリカへ渡った後、キリスト教の洗礼を受けて神学を学び、キリスト教伝道団体の「アメリカン・ボード」の準宣教師となりました。
日本に帰った譲は明治8年(1875年)、「アメリカン・ボード」の力添えによって、京都の地で「同志社英学校(後の同志社大学)」を創立しました。
新島譲
同志社大学今出川学舎校門(広大な敷地です)
新島八重
慶応4年/明治元年(1868年)新政府軍と旧幕府軍が戦った会津戦争が始まると、八重は断髪・男装して、鶴ヶ城(会津若松城)の籠城戦では自らもスペンサー銃と刀で新政府軍と戦いました。敗戦後夫は捕虜となり生き別れ、その後離婚しました。
明治4年(1871年)、八重は京都府顧問となっていた兄山本覚馬を頼って上洛しました。その後兄の元に出入りしていた新島譲と知り合い、明治9年(1876年)結婚し、譲が創立した「同志社英学校」の運営に助言を与えていました。譲と結婚した同年、八重は「アメリカン・ボード」の宣教師アリス・スタークウェザーとともに同志社女学校(同志社女子大学)を創立しました。
結婚生活では、八重は「かかあ天下」だったようで、世間からは「悪妻」と評されていたということです。
譲は八重の男勝りの性格を優しく諌めながら見守っていたということで、アメリカの友人への手紙で「彼女は見た目は決して美しくありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。」と綴っています。
NHK大河ドラマでは、八重の役を「綾瀬はるか」が演じましたが、外見はイメージがマッチしないなと感じるのは私だけでしょうか?
新島八重
新島旧邸
新島旧邸は、同志社創立者の新島譲が妻八重と暮らした旧邸で、譲が明治43年(1890年)に死去するまで、この邸で生活しました。
建物の外観は洋風を取り入れた和洋折衷の住宅で、明治11年(1878年)に竣工しました。現在この旧邸は学校法人同志社が所有・管理しており、京都市指定有形文化財に指定されています。
母屋
現在この邸の南側には「同志社校友会新島会館」が建っており、敷地全体が「同志社発祥の地」とされています。
敷地南側の同志社校友会新島会館
新島旧邸の家屋は、新島夫妻の私邸であるとともに、応接室が教室や礼拝堂として使われたり、書斎を同志社の学生に開放して書籍を貸し出したりとさまざまに使われたそうです。
母屋の建物は、同志社の教員でもあり医師でもあった外国人宣教師W.テイラーの助言を得て譲自身が設計したと伝えられおり、随所に個性的な設計が顕われているようです。トイレは水洗ではないものの、腰掛式の洋式トイレを採用しました。
母屋の建物は木造2階建てで、外観はコロニアル風で、三方にベランダを配し、窓には鎧戸をつけています。暖房は当時としては画期的なセントラルヒーティングで、床は建築当初は全室板張り(今でゆうフローリング)で作られました。
ベランダを三方に配置したコロニアル風建築
応接室(西側)
茶室(譲の死後八重が作りました)
書斎(奥の天井下にセントラルヒーティングの煙突が見えます)
書斎
応接室(東側)
1階と2階のベランダ
譲は両親の隠居所として、江戸の神田の安中藩邸にあった邸を再現した建屋を建てています。
譲の両親の住まい
庭に咲く椿
寺町通りに面して建つ「新島旧邸」
「新島旧邸」の向いには京都御苑
通常公開時には、旧邸の建物の外観のみ見学ができます。入場は無料で、おそらく同志社のOBの方がボランティアでされていると思いますが、係の方もおられます。隣接した新島会館では同志社の歴史や、新島譲・八重のあゆみが解説されています。
アクセス
京都市営地下鉄烏丸線 丸太町駅下車 徒歩約15分
京阪電鉄鴨東線 神宮丸太町駅下車 徒歩約10分
京都市営バス 河原町丸太町バス停下車 徒歩約5分
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