2019年8月3日土曜日

【麒麟がくる】大津の「西教寺」は明智光秀の菩提寺(その2)

天台真盛宗の宗祖真盛上人の教えに「無欲清浄・専勤念仏」があるそうです。「西教寺に来ると小鳥も樹林も子供たちも念仏を唱えずにいられない」と江戸時代の禅僧「沢庵和尚」も詠っています。参道の途中のにこやかなお地蔵さんが念仏を唱える姿に心が癒され、今日一日心穏やかに過ごせそうです。
【麒麟がくる】大津の「西教寺」は明智光秀の菩提寺(その1)では、西教寺お参り順路を途中までご案内させていただきました。今回はその続きと途中「明智光秀」と「西教寺」の関係にも触れながらお参りしていきたいと思います。

念仏小僧

 西教寺お参り順路(ご参考) 

【麒麟がくる】大津の「西教寺」は明智光秀の菩提寺(その1)に続けてお参りを続けたいと思います。

 5.勅使門 

坂道の参道の突き当りに、「勅使門」があります。天皇や天皇家の勅使が来山されたときに使われる門です。一般の参拝者は勅使門の前の通路を左に曲がり更に直ぐの階段を右に上っていきます。

勅使門
勅使門裏側

 6.手水舎 


 7.本 堂 

西教寺は、飛鳥時代に「聖徳太子」が仏法の師である高麗・百済から渡来した僧「慧慈(えじ)」「慧聰(えそう)」のために開創された寺院で、推古天皇26年(618年)に大窪山の号をたまわり、天智天皇8年(669年)に「西教寺」の号を下賜されたと伝えられています。

寺記には天台座主慈恵大師良源大僧正「恵心僧都」が念仏道場としたとあります。その後比叡山で修行した真盛上人が文明18年(1486年)に入寺し、「不断念仏の根本道場」として「西教寺」を再興しました。

明治16年(1876年)明治政府によって別派独立が公に許可され、「天台宗真盛派」の本山になりました。

昭和16年(1941年)、に天台三派合同となりましたが、終戦とともに昭和21年(1946年)に天台宗三派、延暦寺(山門)、三井寺(寺門)、西教寺(真盛)が分離しましたが、この時「天台宗真盛派」を「天台真盛派」と公称して独立しました。

なお、本堂内は写真撮影禁止ですので、当ブログには本堂内の写真はありません。

本堂
大本坊から見た本堂(威風堂々です)
本堂から見た「明智光秀一族」の墓所

 8.明智光秀の生涯と西教寺 

「明智光秀」は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将です。

「光秀」は美濃の国の土岐支流の明智家に生まれました。生年は不明ですが、大勢の説は享禄元年(1528年)となっています。

「光秀」は後に美濃の国主となる「斎藤道三」に仕え、越前朝倉に仕え、細川幽斎と出会い、その縁で「足利義昭」に仕えることになります。「光秀」はその後の「信長」の美濃攻略に際して「義昭」と「信長」の間で仲介役を果たしました。

その後、「義昭」と「信長」の両属家臣(二股)として活動していましたが、元亀元年(1570年)「金ケ﨑の戦い」で武功を納めた「光秀」は、近江の国の大津の要害「宇佐山城」を与えられました。「宇佐山城」は大津の「宇佐八幡宮」の背後の宇佐山の山頂に築かれた山城でした。この頃から「光秀」は「信長」との距離を縮め始めました。

元亀2年(1571年)の「比叡山焼き討ち」の際には、信長の命を受け焼き討ちの中心実行部隊として武功をあげました。その結果、出世とともに恩賞として近江の国の坂本を含む志賀郡を所領として与えられました。坂本の地は信長の居城のある「安土」とは琵琶湖を挟んだ地にあり、要衝の地であり、これを与えられたということは「大出世」です。なお、この比叡山の焼き討ちの際には「西教寺」も災禍を蒙っていました。

「光秀」は間もなく「坂本城」の築城にとりかかり、元亀4年(1573年)に完成し、完成後は「坂本城」の城主となりました。「光秀」は同時に「西教寺」の檀徒となって「西教寺」の復興に大きく力を注ぎました。

その結果、「明智光秀」とその一族は「西教寺」を菩提寺としたのでした。

その後、「光秀」は信長の命により天正3年(1575年)の「高屋城の戦」「長篠の戦」「越前一向一揆」で戦功をあげ、「信長」から「丹波国攻略」を任されました。紆余曲折はありましたが、天正7年(1579年)「丹波の国」を平定、更にすぐに「丹後の国」も平定しました。「光秀」は丹波の国の平定で手に入れた「福知山城」を改修しました。「光秀」は絶好調でした。
「明智光秀」の画像検索結果
明智光秀
その後も「信長」に対し幾度となく功績をあげましたが、「光秀」に対し危機感を抱いていた「信長」から徐々に疎んぜられ始め、段々と閑職に追いやられることとなりました。

やがてついには、「ライバル「豊臣秀吉」が戦っていた「毛利征伐」の手助けをせよ」との命を受けたことに至って、「光秀」は堪忍袋の緒が切れたのでしょう。天正10年(1582年)「本能寺」にいる主君「信長」の討伐に向かいました。(本能寺の変)

「本能寺の変」の画像検索結果
本能寺の変
「本能寺の変」では「光秀」は主君「信長」を討つべしとして、「本能寺」に攻め入り、主君「信長」を自害させました。

「本能寺の変」で京都を押さえた「光秀」は、「安土城」と「近江」を押さえようとして、まずは自らの居城「坂本城」に入り近江を押さえ、次に「安土城」に入って信長所蔵の金銀財宝を強奪しました。

毛利征伐で中国地方に出ていた秀吉は、「本能寺の変」の報告を聞くや否や、後に云う「中国大返し」で速攻で京都に引き返し、「光秀」の軍の掃討を全軍に命じました。

「光秀」は、中国地方から引き返してきた「秀吉」の軍勢を、本能寺の変からわずか11日後に山崎の地で迎え撃つことになりました。(山崎の戦い)
両軍は兵力の差もあり、戦いが始まると短時間で「光秀」の軍勢は包囲され敗走し、すぐに勝敗は決しました。

同日深夜「坂本城」を目指して落ち延びる途中、山科の地で落ち武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負った「光秀」は自害し、家臣に介錯させてその首を竹藪に隠したといいます。その後「光秀」の首は発見され本能寺で晒され、さらに粟田口で首と胴をつないで晒されたといいます。

「光秀」は本能寺で「信長」を撃ったことで、天下を掌握したことになっていましたが、わずか11日でその夢は潰えました。後世の人はこれを「三日天下」と揶揄しました。

「光秀」の若い頃は出世欲からでしょうか、相当に人脈づくり・営業活動に奔走していたようです。謎の多い人物ですが、その行いは現代のサラリーマンに通じるものがあると感じるのは私だけでしょうか。人脈と実力で出世の道を昇っていくけれども、部下の実力に脅威を感じた上司である「信長」に疎まれて干されていく。大なり小なり我々にも経験があるのではありませんか。

安土城で留守を守っていた「光秀」の家臣「秀満」は、「光秀」が山崎で敗走したことを聞き「坂本城」へ戻りましたが、やがて「坂本城」は包囲され、「光秀」の子と自分の妻子を殺し、城に火を放って自害しました。その後、西教寺の復興に力を尽くした光秀の功徳を恩に感じた西教寺は、「明智光秀一族とその家臣」の墓を境内の本堂前に安置することとしました。

なお、「光秀」一族と家臣の墓は「西教寺」にありますが、「光秀」の墓は「西教寺」にありません。

実は全国の何ヶ所かに墓と首塚が存在しています。その1ヶ所目は、京都東山三条白川筋の「光秀公墓石と首塚」です。2ヶ所目は、岐阜県山県市美山町の「明智光秀公の墓」山科で死んだ「光秀」は影武者で本人は当地まで逃げてきたという伝承があるそうです。3か所目は京都亀岡の「谷性寺」で、「光秀」の首塚と墓があります。いずれの場所も地元の人達の「光秀」愛が感じられます。その他にも京都府宮津市の「盛林寺」境内などがあるそうです。


 9.明智光秀一族の墓所 

「明智光秀一族の墓所」は、一般の墓所とは別に「西教寺」の本堂前に他の戦国武将の墓と同様に安置されています。世間の人々から「主君を討ち取った逆賊」とのそしりを受けていたとしても「光秀」であっても、「西教寺」にとっては特別な存在だったということでしょうか。


「光秀一族の墓」

「明智光秀一族の墓」です。右側の三角形の石塔は供養塔です。

明智光秀一族の墓
墓所の前の掲示板には、下記のように記されています。

坂本城主明智日向守光秀とその一族の墓
織田信長が元亀2年(1571年)9月、坂本・比叡山を中心に近江の国の寺院を始め大半を焼き討ちした。
西教寺も全山類焼の厄に遭った。すなわち元亀の兵乱である。その後再興に尽力したのは、信長の将・明智光秀で、浜坂本に坂本城を築城、坂本城主として坂本一帯の復興にあたり、西教寺の大本坊(庫裡)を造築、刻名入りの棟木も現存している。また天正2年(1574年)仮本堂を完成し、現在の本尊(重文丈六の阿弥陀如来)を迎えている。
それ以来、光秀との由縁は深く、元亀4年(1573年)2月、光秀が堅田城に拠った本願寺光佐を討った時、戦死者18名の菩提のため、武者・中間のへだてなく供養米を寄進したと云われている。また早逝した内室「煕子(ひろこ)」の供養もされ、墓が安置されている。
天正10年(1582年)本能寺の変の後、山崎の合戦に破れて非業の最後をとげた時、光秀一族とともに当寺に葬られたと云われている。のちに坂本城の城門の一つも当寺に移されたと伝えられている。
爾来、当寺としては光秀の菩提の為6月14日に必秀忌を営んでいる。

明智光秀の妻「明智」の墓

「光秀」の妻「煕子(ひろこ)」は、「光秀」が26歳・妻「熈子」が19歳のときに出会い結婚しています。夫婦仲は極めて良かったということで、「光秀」は妻「煕子」が存命中は側室を置かなかったということです。

「光秀」との間に3男4女をもうけ(母は別という説もあり)、三女「珠(たま)」は「細川忠興」の妻となり、後にキリスト教の洗礼を受け「細川ガラシャ」として広く知られています。

「煕子」は「本能寺の変」の6年前の天正4年(1576年)に亡くなっていますが、「光秀」は「西教寺」に墓を安置して大切に供養しています。

石垣の右下に安置されている「煕子」の墓

江戸時代の俳人「松尾芭蕉」は、「奥の細道」の旅の途中に越前の丸岡を訪れた際に「光秀」の妻「煕子」の咄を聞かされて感動しました。その後、訪れた伊勢の門人「又玄」宅で、貧しいにも関わらず温かいもてなしをしてくれた「又玄」の妻に次の句を詠んで贈ったとのことです。

 「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」

江戸時代でも、「光秀」は逆賊として扱われていましたが、「芭蕉」はその逆賊の妻を褒めたたえた句を詠んでいました。


煕子」の墓の前の「芭蕉」の句碑

「光秀」の故郷の岐阜県土岐市の篤志家が寄贈した「濃州妻木(明智)一族供養塔」がありました。
供養塔には「濃州妻木十二代城主妻木藤右衛門廣忠(光秀の妻煕子の父)」とあり、山崎の戦で討死し煕子の兄弟3人と、同様に討死し妻木一族を供養するため建てたものということです。


明智光秀辞世の句

境内には「光秀」が辞世の句を詠んで、従士に託して自刃したと伝えられています。(諸説あり)
修行の道には、順縁の道と逆縁の道と二つある。しかしこれは二つにあらず。実は一つの門である。即ち順境も逆境も実は一つで、究極のところ、人間の心の源に達する大道である。
而してわが五十五年の人生の夢も醒めてみれば、全て一元に帰するものだ。


 10.西教寺客殿 

「西教寺」の賓客をもてなすための「客殿」は、伏見城の旧殿を移築したものと云われています。国の重要文化財に指定されています。
「客殿」の内庭には、「小堀遠州」が作庭したと云われる庭園があります。

客殿
本殿の山側の客殿と門

 11.大本坊 

「大本坊」とは庫裡のことで、天台真盛宗宗務所や寺務所があって、全国末寺寺院を統括しています。
「比叡山の焼き討ち」で焼失しましたが、坂本城主となった「明智光秀」が寄進して「大本坊」を再建しました。

大本坊の中には、拝観者も使える休憩所や売店もあります。

大本坊

大本坊の扁額

本堂と大本坊をつなぐ渡り廊下

本堂と大本坊をつなぐ渡り廊下
「大本坊」の売店

休憩所の中の「三千五百体地蔵尊」





大本坊中庭の「大本坊庭園」

江戸時代初期に作庭されましたが、作庭者不詳です。「禅院式枯山水庭」と「茶庭式露地庭」を融合して特異な美を構成した名庭園と云われています。


次回 【麒麟がくる】大津の「西教寺」は明智光秀の菩提寺(その3) では「真盛上人御廟」、「大本坊」などをご紹介していきます。

アクセス
京阪電鉄石坂線 坂本駅下車徒歩20分


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