「伊藤若冲」は江戸時代中期に京都の錦小路の青物問屋の長男として生まれましたが、家業は弟に任せ自身は絵画を志し、やがて京都画壇を代表する絵師になりました。
「宝蔵寺(ほうぞうじ)」由緒
寺 号 無量山 如輪院 宝蔵寺
宗 旨 浄土宗西山深草派(せいざんふかくさは) 総本山は誓願寺
御本尊 阿弥陀如来立像
御利益 良縁成就・良縁吉祥
宝蔵寺は「弘法大師空海」の創立と伝えられ、文永6年(1269年)如輪上人により元西壬生郷に開基されました。
弘安2年(1279年)如輪上人が遷化され、その後天正9年(1581年)に玉阿律師によって中興再建された後、天正19年(1591年)に豊臣秀吉の寺町整備により、現在の裏寺町に移転しました。
天明8年(1788年)の「天明の大火」と元治元年(1864年)の「禁門の変」の際の火災で建物は全焼しました。
現在の本堂は昭和7年(1932年)に建立されたものです。
本堂(昭和7年に建立) |
伊藤若冲は平成になって人気が爆発した江戸時代中期の京都の絵師です。代表作は濃彩花鳥図「動植綵絵(さいえ)群鶏(ぐんけい)図」など花鳥を題材にした作品30幅です。
写実と想像を融合させた「奇想の画家」として有名です。
代表作 群鶏図 |
その後も絵に対する思いは年々つのり、宝暦5年(1755年)39歳の時に家督を次弟の宗厳に譲って隠居しました。弟は兄をよく理解し画業を経済面から支えました。
若冲は宝暦8年(1758年)42歳頃から、代表作となる濃彩花鳥画「動植綵絵(さいえ)」
シリーズを描き始め、全30幅の完成まで10年の歳月を要しました。この間に京都画壇で若冲の実力は着実に認められ、円山応挙に次ぐナンバー2に昇りました。
錦市場が営業停止の危機に見舞われたとき、弟の白歳とともに奉行所と交渉を続け市場再開を勝ち取ったことも有名です。なお、この間の事情のせいか、この時期に描かれた作品は殆ど無いそうです。
伊藤若冲と宝蔵寺
若冲は生家が錦小路にあったことから、宝蔵寺を菩提寺としていましたので、宝蔵寺とは関係が深く、若冲が建立した父母の墓石、末弟・宗寂の墓碑が残り、次弟・白歳の墓碑も建てられています。伊藤若冲親族の墓 若冲建立 |
左から末弟・宗寂、次弟・白歳の墓 |
なお、若冲本人の墓所は、京都の相国寺にあります。
八臂辨財天(はっぴべんざいてん)
境内に「八臂辨財天」が祀られています。八臂辨財天は、金光明最勝王経に説かれている一面八臂の弁天様です。宝珠・宝棒・宝箭・宝刀・宝弓などを持っています。
「良縁成就・良縁吉祥」にご利益があります。
八臂辨財天 |
天道大日如来
大日如来は真言密教の教主。天道大日如来の祠 |
宝蔵寺は本堂の一般拝観はされていませんが、伊藤若冲の親族の墓所は拝観できます。
アクセス
阪急電車京都線 河原町駅下車 徒歩5分
京阪電車京都線 四条駅または三条駅下車 徒歩 7分
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