2019年7月19日金曜日

【鉄道記念物】指定 旧東海道線「旧逢坂山ずい道東口」 

国道1号線を京都から大津へ国道1号線で進み、旧東海道の「逢坂の関」を過ぎてすぐに大津市街から大津港へ向かう道が分岐します。この分岐道へ入ってすぐの左側に「鉄道記念物 旧逢坂山ずい道東口」があります。「旧逢坂山ずい道」は京都から大津へ抜ける旧東海道線を開通させるため逢坂山を掘削した、日本人の技術者と職人が主体となって設計・施工を行った我が国初の山岳隧道です。

逢坂山隧道東口
    

 「逢坂山隧道」 


古来より「逢坂山」は京と東国を結ぶ交通の要衝で、多くの歌にも詠まれてきました。

江戸時代、江戸から京へ上るメインストリートは「東海道」でした。「東海道五十三次」は東海道にあった53の宿場町のことですが、「大津宿」は53番目の宿場町で、53ある宿場町で最大の宿場町でした。人々は大津宿を出ると終点三条大橋までの間の最後の関所「逢坂の関」を通過するために大津から急な坂道を登りました。

時代は下って、明治時代に入り時の新政府は東京と大阪を結ぶ鉄道の計画を持ち上げましたが、ルート案が定まらず新橋駅~横浜駅間を先行開業することとして、明治5年(1782年)に新橋駅~横浜駅間が日本で最初の鉄道として開業しました。その後関西では明治10年(1877年)に京都駅~大阪駅~神戸駅間が開業しました。その後京都から大津以降へも延伸する計画でしたが西南戦争等の影響でなかなか着工できませんでした。

明治11年(1878年)にようやく着工し、このとき京都と大津を一直線で結ぶとなるとトンネルを2つ掘削しなければならず、更に1つ目のトンネルの東山は地質が不良で掘削が困難ということが判明し、東山を避けて南下して稲荷経由で建設することとなりました。

明治12年(1879年)京都駅~稲荷駅~山科を越えた大谷駅(現在の京阪大谷駅)間が仮開通しました。結局、大谷~大津間は逢坂山に隧道を掘らざるを得ず、大谷駅~大津駅間を最短で結ぶ逢坂山を664.76m掘削することとなりました。これが「逢坂山隧道」です。

明治12年(1879年)10月5日に大津側の東口、同年12月5日に大谷側の西口から掘削を開始しました。工事には1年8ヶ月を要し、明治13年(1880年)6月28日にようやく「逢坂山隧道が完成」し、同年7月15日に京都駅~馬場駅(現在の膳所駅)~大津駅(現在の京阪浜大津駅)が開通しました。

線路は左側のトンネルから出て

右側のビルの方向の馬場(膳所)駅の方向へ

工事は当時の工部省が担当し、当時工部省の直轄であった「生野銀山」の職人が伝統的な
ノミやツルハシを主体とした手掘りで掘り抜いたとされています。

逢坂山隧道の内部(閉鎖されています)


明治22年(1889年)、東海道線の新橋駅~神戸駅間が開通しましたが、その後「逢坂山隧道」を含む京都駅~馬場駅間は上り・下りともに25%の急勾配区間ががあり、輸送上のネックとなっていたために、東海道線のなかでも優先して複線化が計画されました。明治30年(1897年)、に大谷駅~京都駅間に下り線を増設し、明治31年(1898年)
には馬場駅~大谷駅間の上り線増設に伴い「上り隧道」が開通しました。

隧道の内部(レンガ積み)
右側が明治31年開通した上り隧道

その後、勾配を緩和した東山トンネルと新逢坂山トンネルが開通し、同区間の新線が大正10年(1921年)に開業すると、同時に「逢坂山隧道」は鉄道トンネルとしての使命を終えました。
閉鎖され木製の扉が設けられました
 「楽成頼功」の扁額 

「旧逢坂山隧道」の東口の坑門上部には、工事の竣工を記念して、時の太政大臣「三条実美(さんじょうさとみ)」の揮毫による「楽成頼功」の扁額が掲げられています。「落成」でなく「楽成」としたのは、落盤に通じる「落」の文字を避け縁起の良い「楽成」としたそうです
 


     

 「鉄道記念物」に指定 

「旧逢坂山ずい道」は昭和35年、鉄道記念物」に指定されました。

鉄道記念物」は旧国鉄(日本国有鉄道)が昭和33年(1958年)に制定しました。これは日本の鉄道に関する歴史的文化的に重要な事物等を指定して保存・継承するための制度、あるいはその制度により指定された事物等をいいます。
昭和62年(1987年)の国鉄分離民営化後は、既存の鉄道記念物」がJR各社に承継されています。平成30年(2018年)までに44件の鉄道記念物が指定されています。
JR西日本京都支社による鉄道記念物指定の掲示板

 近代化産業遺産 

「旧逢坂山ずい道」は平成20年度、経済産業省が日本の産業の近代化に貢献した産業遺産として指定した近代化産業遺産」の指定をうけました。

隧道内に掲示された近代産業化遺産のプレート

 「逢坂山隧道」のその後 

「逢坂山隧道」は大正10年(1921年)、鉄道トンネルとしての使命を終えましたが、廃止後しばらくは通路としての利用があったようであり、太平洋戦争の戦時中には戦火を避けるために工場が置かれ、戦後の一時期には住み家を失った人が住みついたりしてもいたそうです。

そして現在、近辺に設置された「京都大学防災研究所・付属地震予防研究センター・逢坂山観測所」の行っている地震観測のために、隧道内に各種センサーが設置されているようで、我々の一番の心配事の「防災」について大事な役割を担っているようです。これは「京都大学・逢坂山観測所」からトンネル内に通信ケーブルが引き込まれていることからも見て取れます。この通信ケーブルは複線化のために「上り隧道」にも引き込まれていますので、「上り隧道」でも観測が行われているものと思われます。
  
 
京都大学防災研究所・付属地震予防研究センター・逢坂山観測所



 新逢坂山トンネル 

現在の新逢坂山トンネルは、新線は第二次大戦中の輸送力増強のため、京都~膳所で上り2車線、下り1車線とすることになりました。この工事は昭和19年に完成しました。これにより新逢坂山トンネルでは上り内側線が増線されました。

昭和40年(1965年)には京都~草津間には複々線化工事が着工され、昭和45年(1970年)に完成しました。これにより新逢坂山トンネルでは現在の上り外側線が新たに掘削されました。このうち新逢坂トンネルの内側線トンネルと外側線トンネルは大津口付近で合流しています。つまり山科口からは入口が4つあるけれど、大津口では3つしかないことになります。

新逢坂山トンネル大津側出口

新逢坂山トンネル大津側出口

鉄道の歴史を通して、明治以来日本人が「欧米に追い付け・追い越せ」の精神で、必死で頑張ってきた姿を感じることができたと思います。近代の歴史を感じることは私達の生きざまを感じることにも繋がると思います。このような歴史に触れることも刺激になります。是非お出かけください。

アクセス
JR琵琶湖線 大津駅下車 徒歩15分
京阪電車京津線 上栄町駅下車 徒歩14分

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