2019年7月17日水曜日

恋に生きた平安中期の女流歌人「和泉式部」は「誠心院」で静かに往生しました

「誠心院」は観光客で賑わう、京都の新京極通りに面して建っています。
平安中期の女流歌人「和泉式部」は、娘に先立たれた悲しみから世の無常を憂い、京都の「誓願寺」で六字名号を唱えて女人往生を悟り、「誠心院」の初代住職となって「南無阿弥陀仏」を唱えながら浄土へと静かに往生しました。

誠心院本堂

 誠心院 由緒 



寺 号 華嶽山(かがくざん)東北寺(とうぼくじ)誠心院(せいしんいん)

通 称 和泉式部寺(いずみしきぶでら)

宗 旨 真言宗泉涌寺派

御本尊 阿弥陀如来

創 建 藤原道長

開 山 和泉式部

ご利益 知恵授け・恋授け

誠心院の山門は、平成9年(1997年)に、

新京極通りに面して建つ山門
「誠心院」の初代住職は「和泉式部」です。寺号の誠心院は和泉式部が尼僧となった際の法名「誠心院専意法尼」によるものです。

 恋に生きた和泉式部 


「和泉式部」は、平安中期の女流歌人で中古三十六歌仙の一人に数えられています。

「和泉式部」の画像検索結果

和泉式部は天元元年(978年)頃、父・越前の守「大江雅致」と、母・越中の守「平保衡」の娘との間に生まれました。

長保元年(999年)頃までに、和泉守・橘道貞の妻となり夫とともに和泉国に入りました。道貞との婚姻は後に破綻しましたが、道貞との間にもうけた娘「小式部内待」は母譲りの歌才を発揮しました。

式部は帰京した後は道貞とは別居状態のままでしたが、冷泉天皇の第三皇子「為尊親王」との道ならぬ熱愛(不倫)が世に喧伝されましたが、身分違いの恋ということで親から勘当されました。

まもなく「為尊親王」は長保4年(1002年)26歳という若さで亡くなりました。伝染病が大流行していた平安京の街を毎日のように夜遊びしたため病になったと噂されました。

為尊親王の死後、長保5年(1003年)今度はその同母弟つまり冷泉天皇の第四皇子「敦道親王」の求愛(不倫)を受け、召人として敦道親王の邸に住んだことから、親王の正妃である藤原済時の娘が家出することとなりました。
その後、寛弘3年(1006年)頃「敦道親王」の召人として男子(岩蔵の宮・後に出家して永覚)をもうけましたが、「敦道親王」は寛弘4年(1007年)「為尊親王」同様に若くして亡くなりました。
「敦道親王」との恋の顛末を記した物語風の日記は、「和泉式部日記」式部の代表作ともなっています。

寛弘年間の末頃(1008年~1011年)、「藤原道長」の娘で一条天皇の皇后「藤原彰子」に女房(女官)として出仕しました。このころ「紫式部」や「赤染衛門」とともに宮廷サロンを築きました。

式部は恋愛遍歴が多く、「藤原道長」からは「浮かれ女」と評され、同僚同房であった「紫式部」からは「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評されています。

式部は情熱のおもむくまま恋に生きたのです。

「和泉式部」は「和泉式部正集」「和泉式部続集」などが現存し、「拾遺和歌集」以下勅撰和歌集に実に246首の和歌を採られ、日本を代表する女流歌人といえます。

式部は、長和2年(1013年)40才を過ぎた頃、主人「藤原彰子」の父で後の関白「藤原道長」の家司で武勇をもって知られた「藤原保昌」と再婚し、夫の任地丹後に下りました。
「和泉式部」の画像検索結果
和泉式部
万寿2年(1025年)、娘の「小式部内待」が死去しました。

娘を亡くした愛傷歌
「暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遥に照らせ 山の端の月」
は胸を打つものがあります。

式部は娘に先立たれた哀しみから世の無常を感じ、姫路の書写山の高僧・「性空上人」を訪ね、次に京都八幡の岩清水八幡宮に参りましたが、夢に現れた老僧から「誓願寺で祈るべし」とのお告げを受け、京都の誓願寺で「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えたところ霊夢に老尼が現われ「念仏をとなえれば女人往生まちがいなし」と告げられました。式部は昼夜の称名を怠らず、身の塵を清め清浄持戒の尼僧になりました。

万寿4年(1027年)、関白「藤原道長」は出家した式部のために、法成寺※の中の東北寺に建立したお堂が「誠心院」の始まりとされています。

「和泉式部」は、「誠心院」でめでたく極楽往生しました。

※「法成寺」は「この世をば わが世とぞ思う 望月の かけたることも なしと思えば」と詠んでこの世の栄華を極めた「藤原道長」が晩年病に苦しんだことから建立した寺院で、当初は「九体阿弥陀堂」の建立を発願して、翌年に完成して「無量寿院」と号しました。ところが道長の正妻「源倫子」により次々と伽藍が建立され、法成寺は宇治の平等院の範となった寺院でもあり、鴨川方向から見れば平等院のようであったと思われます。
その後、鎌倉時代に入り度々の大火・兵火にみまわれ伽藍は焼失し、現在は京都市上京区荒神口通り寺町東入ルの京都市立鴨沂高校の塀際に「法成寺址」の石標を残すのみとなっています。

「誠心院」はその後、鎌倉時代に御所の西小川通り一条上るに移転し、更に豊臣秀吉の京都再整備に伴う寺町整備(1590年~1592年頃)の際に現在地に移転しました。


 宝篋印搭(ほうぎょういんとう)和泉式部の墓所 


誠心院の和泉式部の墓所は、正和2年(1313年)に改修されています。和泉式部は、岐阜県御嵩町や京都府亀岡市などに墓所と云われる足跡を残していますが、誠心院にもその墓所として高さ約4mの立派な石塔が存在します。

和泉式部の墓所
 二十五菩薩石像 

和泉式部が女人往生をとげたことに由来する二十五菩薩来迎の像です。
阿弥陀如来を中央に、観音菩薩、勢至菩薩など左右に二十五体の菩薩が並んでいます。
西方極楽浄土の阿弥陀如来が、念仏の行者を迎え入れる時に二十五菩薩を従える十往生経の教えによるもので、石仏の二十五菩薩は珍しいものです。



 式部千願観音石像 


観音様は、大慈大悲の観世音菩薩といわれ、人々の苦しみを取り、喜びを与えて下さるご利益があります。
「百観音巡拝」を祈念して建立されました。

式部千願観音石像

 小御堂(本堂) 


本堂には、御本尊の「阿弥陀如来像」、「和泉式部像」、「藤原道長像」が安置されています。


小御堂(本堂)

 水かけの行者・神変大菩薩像 


「神変大菩薩」とは修験道の祖と仰がれる、役行者の諡号(しごう)です。
役行者像に水をかけるとご利益があるようです。

水かけの行者・神変大菩薩像

 鈴成り輪(すずなりぐるま) 


「山門」前の和泉式部の古い灯籠の竿と台座を使った鈴なりの輪。
「摩尼車」とも呼ばれ、重い石の輪を1回転させれば経典を1回読誦した功徳が得られると言います。

鈴成り輪
アクセス
阪急電車京都線 河原町駅下車 徒歩8分
京阪電車京都線 三条駅または祇園四条駅下車 徒歩8分
京都市営地下鉄 四条駅下車 徒歩15分


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