2019年7月21日日曜日

「一休和尚」が修行し、悟りを開いた大津市堅田の「祥瑞寺」

かつてアニメ「一休さん」で一躍人気を博した「一休和尚」は、後小松天皇の子として生まれましたが、数奇な運命から京都の禅寺に預けられ、やがて「宗純」という戒名を授けられました。
「宗純」は22歳の時、禅の道を究めようと禅の高僧「華叟宗雲」の教えを乞うため大津市堅田にある「祥瑞寺」の門を叩き、その後13年間修業の日々に明け暮れました。

祥瑞寺
 「祥瑞寺(しょうずいじ)」由緒 

寺 号 大平山 祥瑞寺

宗 旨 臨済宗 大徳寺派

御本尊 釈迦如来坐像

開 山 華叟宗雲(かそそうどん)

祥瑞寺は滋賀県大津市堅田の堅田港の近くにあり、応永13年(1406年)、京都の大徳寺の高僧「華叟宗雲」が開山しました。

本堂


祥瑞時の隣の「夕陽山本福寺」の寺伝によると、鎌倉時代末期の元弘2年(1332年)、比叡山横川楞厳院(よかわりょうごういん)の僧了本房(りょうほんぼう)が当地(当時は田地)を手に入れて玉泉庵(ぎょくせんあん)を開きました。

その後康暦2年(1380年)僧単澡(たんそう)が聖瑞庵(しょうずいあん)と称して寺基を固めました。

更にその後、明徳2年(1391年)には僧原素(げんそ)に譲られ、応永13年(1406年)には京都の大徳寺の高僧華叟宗雲(かそうそうどん)に寄進され、祥瑞寺として開山しました。華叟宗雲は後に住持となり、応永17年(1410年)には祥瑞時は大徳寺の末寺となり、堅田における臨済宗の禅道場となりました。

華叟宗雲が住持となった当時の堅田は、琵琶湖の湖上の権利、すなわち琵琶湖全域での漁業権、航行する船を取り締まる関務権、船を安全に航行させる上乗権の三つの権利を守り通してきていて、それで得た莫大な財力を背景に堅田千軒と称される琵琶湖最大の町が築かれていました。
当時の堅田では、百姓・商工業者らの全人衆(まろうどしゅう)の信仰する「真宗本福寺」に対し、地侍(じざむらい)・土豪層の信仰する禅宗寺院として「祥瑞寺」がありました。

本堂
 一休和尚と祥瑞寺 

とんち話で有名な「一休さん」の一休和尚は歴史上実在した人物です。

「一休和尚」は南北朝から足利氏の室町幕府へ移行して社会は未だ混沌とした時代の応永元年(1394年)、父「後小松天皇」(ごこまつてんのう・北朝の天皇)と母「伊予局」(いよのつぼね・藤原氏・南朝方公家花山院某の娘)の間に生まれました。出生は正月一日の日の出の時であったと伝えられています。
「後小松天皇」の画像検索結果
後小松天皇
母の伊予局は、後小松天皇から寵愛されていましたが、他の女官達が「伊予局は南朝の義を守って天皇の命を狙っている」と讒言したために宮中を追われ、都を離れて京都の奥嵯峨の地蔵院という小さな庵に住み、そこで帝の子を産み、生まれた子に「千菊丸」と名付けました。

「千菊丸」は帝の直系の子ですので、当然皇位継承順位一位でしたが、母の伊予局は千菊丸に物心ついてからも、「この先いつ何時北朝方の者が天皇の血筋の我が子の命を狙うかも知れない」と不安が尽きることはなく、いっそ千菊丸を僧侶にして命を守ろうと考えました。

「千菊丸」は6歳で母の元を離れ、京都の安国寺(四条大宮西に位置した禅寺で現在は廃寺)に預けられ、「周建」と名付けられました。

そのころ安国寺には多くの子供や行者が修行しており、その中でもずば抜けて頭の良かった「周建」はたちまち実力を発揮して、機知に富む受け答えや根っからの明るさでたちまち僧堂内の人気者になったということです。このころの逸話が後世の「一休さん」のとんち話として伝えられたものということです。

「一休さん」の画像検索結果

周建は早くから詩才に優れ、応永13年(1406年)13歳の時に作った漢詩「長門春草」、応永15年(1408年)15歳の時に作った漢詩「春衣宿花」は洛中で評判となりました。

才能に恵まれ、周囲からも一目を浴びていた「周建」でしたが、当の本人は修学に夢中でとにかく努力を続けていました。ところが周囲の様子はせっかくの修行の場に身を置きながら堕落した生活をする者ばかりでした。修学を熱心にやらない禅門とその弟子達へ怒りと失望はつのるばかりでした。

「周建」17歳の時、純禅の道を求めて京都の「西山西金寺」(さいこんじ・京都市下京区の西本願寺の北側にあった禅寺で現在は廃寺)の「謙翁宗為」(けんおうそうい)の弟子となり戒名を「宗純」と改めました。ところがようやく修学の道に入った矢先の応永21年(1414年)師の謙翁宗為が死去したため、「宗純」はショックで呆然となり大津の瀬田川に身を投げようとしました。しかしこの時、母の手の者が背後に立ち「宗純」の自殺を止め奥嵯峨の母のもとへ連れ帰りました。

奥嵯峨の母のもとで自分を取り戻した「宗純」は、翌年再び禅道に身を委ねようと奥嵯峨を後にして、応永22年(1415年)に京都の大徳寺の高僧で無欲清貧を貫き当代随一の禅僧と謳われる「華叟宗雲」が住持を務める大津堅田の「祥瑞寺」(当時は祥瑞庵と呼ばれていました。)を訪ねました。「華叟宗雲」「謙翁宗為」と同じく華美な都の禅寺を嫌っていました。

しかし「華叟宗雲」からは直ぐには弟子にしてもらえなかったため、「宗純」は堅田港の漁船に寝泊まりしながら粘り強く入門を願い、ようやく弟子にしてもらえました。


「華叟宗雲」の弟子となり「祥瑞寺」で禅道の修行の場を得た「宗純」は懸命に修行に励みました。

応永25年(1418年)、「宗純」25歳の時、師「華叟宗雲」より「洞山三頓の棒」という「公案」(禅宗で悟道のために与えて工夫させる問題)を与えられ、これを解いて悟りを開いたといいます。「有漏路(うろぢ)より無漏路(むろぢ)へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と詠みました。有漏路というのは煩悩のある境地のことで、無漏路は欲に惑わされない境地(仏の境地)のことです。「宗純」は二つの間のわずかな境地に身を置いて、さあこれからが正念場、無漏地へ向かうまで一休みだと豪快に言ってのけたのです。あくる日「宗純」は独自の悟りの境地を見出したことを讃えられて、師「華叟宗雲」から「一休」の二文字が書かれた書を贈られました。
「宗純」の新しい道号「一休」が誕生しました。

応永27年(1420年)、「一休」はある夜カラスの鳴き声を聞いて悟りました。27歳にして堅田の「祥瑞寺」で「大悟」したのです。

この「大悟」によって、「華叟宗雲」は「一休」に「印可状」(禅宗の卒業証書)を与えようとしましたが「一休」は辞退しました。

「一休」は、京と堅田を行ったり来たりしながらも、修行を続けました。

応永34年(1427年)、「一休」は34歳にして初めて父「後小松天皇」と会いました。母の思いを

正長元年(1428年)、「一休」35歳の時、師「華叟宗雲」が亡くなりました。「一休」は師の死を受けて、「禅の奥義をさらに極めよう、我が心のおもむくままに歩もう、そして善と悪の狭間で迷道する人々に正しく生きる勇気を与えよう」と考え、13年間
修行した「祥瑞寺」を去ることにしました。

その後「一休」は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送りました。男色や仏教の戒律で禁止されている飲酒・肉食や女犯を行ったり、正月に杖の頭にドクロをしつらえ「ご用心、ご用心」と叫びながら歩いたりと奇抜な行動をとったといいます。

文明6年(1474年)「一休」は大徳寺の住持に任ぜられました。寺には住みませんでしたが再興に尽力し、塔頭の真珠庵は「一休」を開祖として創建されました。

また、戦災に遭った妙勝寺を中興し草庵「酬恩庵(しゅうおんあん・京都府京田辺氏)」を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになりました。

文明13年(1481年)、「一休」は「酬恩庵」においてマラリアにより死去しました。87歳でした。墓(御廟所)は酬恩庵にあり、「慈揚塔」と呼ばれますが、宮内庁が管理しています。やっぱり天皇家の皇子です。

 祥瑞寺境内 

本堂
境内
鐘楼
境内の苔庭
境内の歌碑

「祥瑞寺」は今も「一休」が修行した往時の景色を見せてくれています。

 松尾芭蕉と祥瑞寺 

松尾芭蕉は堅田のの地には琵琶湖の対岸の大津から船で渡って「浮御堂」を訪れるなど、
たびたび足跡を残しています。芭蕉は元禄3年(1690年)の秋に祥瑞寺を訪れています。このときに詠んだ句が、「朝茶飲む 僧静かなり 菊の花」

境内にこの句の句碑があります。

芭蕉の句碑

アクセス
JR湖西線 堅田駅下車 徒歩20分


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