2019年5月22日水曜日

大津の大津別院は徳川家康が上洛の際の宿泊場所でした

大津の「大津別院(おおつべついん)」は滋賀県大津市中央にあります。

大津別院は、真宗大谷派東本願寺の別院です。織田信長と石山本願寺で戦った浄土真宗の僧教如が、関ヶ原の合戦の際、徳川家康から敷地を拝領し創建したのが大津別院で、徳川家康が上洛した際には宿泊所として使っていたと言われています。

大津別院山門



大津別院 由緒

寺 号
真宗大谷派 大津別院

宗 派
真宗大谷派

本 尊
阿弥陀如来一佛

真宗大谷派東本願寺の別院です。

本願寺第11世顕如の長男として生まれた教如(1558年~1614年)は、父顕如とともに織田信長と石山本願寺で9年間にわたり戦いました。教如はその後関ヶ原の合戦の際には東軍側につき、江戸に赴いて徳川家康に敵方の石田三成の動向を伝えるなどしたため、家康に喜ばれ、以降親交を深めました。

大津別院は、慶長5年(1600年)に家康から敷地を拝領し、翌年の慶長6年に内陣が完成したと伝えられています。

教如はその後も徳川家と親交を深め、大津別院は家康が上洛する際には宿泊場所となったということです。

現在の本堂は、慶安2年(1649年)に建築で、書院は寛文2年(1662年)の大地震で倒壊した後、寛文10年(1670年)に再建されたものです。

本堂は真宗の寺院の特徴である外陣が広くとってあり、書院とともに桃山建築の素晴らしさがよく表れています。本堂、書院は国の重要文化財に指定されています。

【ミニ知識】

真宗大谷派
信徒の皆さんは充分ご承知のことと思いますが、
浄土真宗の宗派の一派で、阿弥陀如来一佛を本尊とし親鸞上人を宗祖とします。

豊臣秀吉の命で本願寺の法主は教如の弟准如でしたが、関ヶ原の合戦以降、真宗の宗派の力が増大するのを恐れた家康は、本願寺を二分するのが目的で、合戦以降親交の深かった教如に対し、慶長7年(1602年)京都七条烏丸の地に寺領を寄進し、翌年ここに教如を法主とする東本願寺が別立されました。

こうして、本願寺は准如が継承した西本願寺と、教如が別立した東本願寺の二つに分かれることになりました。

本堂

本堂は、桁行9間、梁間10間、入母屋造りで1間の向拝を付けた本瓦葺の大型仏堂です。
内部は内陣に比べ外陣が広い真宗特有の平面で、欄間や蟇股の彫刻に宗派や時代の特色がみられます。
昭和36年に国の重要文化財に指定されました。




書院は本堂の背面にあり、本堂より21年後の寛文10年(1670年)に建築された入母屋造り、本瓦葺の建物です。
コの字型の平面で、中央後方中庭に面して、対面所、その左右には三室が直列します。左方奥は上段の間で、床・棚・書院を設け、天井には草花図、壁面や襖などには丹碧の美しい花鳥図や蘭亭曲水図などが描かれています。右方は内間の室で、手前の間の中州側に龕・炉・棚を設けるのは珍しいものです。




鐘楼

宗務所

明治天皇聖蹟の碑

拝観時間は9時~17時で事前予約が必要です。

残念ながら書院も内部造作や花鳥図も見学していませんが、一見の価値ありと思います。

余談ですが、大津別院のすぐ近くには、明治24年に来日中のロシア皇太子が襲われた大津事件の事件現場があり標石が立っています。後に司法権独立を守ったとして有名になりました。



アクセス
JR琵琶湖線 大津駅下車 琵琶湖方面に向かって徒歩5分




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