2020年7月6日月曜日

「膳所城」は東海道・中山道・北国道の三街道と琵琶湖の湖上交通を制するため、徳川家康の命で築城されました

滋賀県大津市膳所地先の琵琶湖にせり出した埼に「膳所城」は築かれていました。「膳所城」は、徳川家康が関ヶ原の合戦で勝利した直後に、京の背後の守りと、未だ豊臣秀頼が居城する大阪城への備えの城として、藤堂高虎に設計させ、譜代大名に命じて築城工事を施工させました。城主兼膳所藩藩主には、江戸幕府がサラリーマン大名を任命し、当時の交通の重要拠点であった大津を通過する三街道と、琵琶湖の湖上交通の警護にあたらせました。

ファイル:伊勢さんぐうめいしょずえ.pngのZeze城前の船
膳所城と琵琶湖の渡し舟(by Wikimedia Commons)

「膳所城」があった場所に現在では城の形は跡形もありません。現在は、「膳所城跡公園」として整備され、大手門や城壁のレプリカが設置されてはいるものの、当時の建物や構築物は跡形もなく撤去され、本丸の敷地と琵琶湖岸に一部の石垣を残すのみとなっています。

「膳所城」は「徳川家康」が関ヶ原の戦いで勝利した翌年の慶長6年(1601年)に開城して以来270年間、東海道・中山道・北国道の三街道と、琵琶湖の湖上交通を制するため、その役割を果たしてきましたが、大政奉還後の明治新政権樹立後の明治3年(1870年)に廃城・解体されました。

膳所城址公園の大手門と城壁

「膳所城」は、大津市の東部の現在の近江大橋のたもと近くの、膳所崎と呼ばれる琵琶湖にせり出した土地に築かれた水城で、「日本三大湖城(松江城・膳所城・高島城)」の一つに数えられていました。また、大津城・坂本城・瀬田城と並ぶ「琵琶湖の浮城(4城とも現存していません)」の一つでもありました。

陸続きの部分に三の丸を配して、二の丸・北の丸・本丸が琵琶湖に突出する梯郭式(ていかくしき)の縄張りとなっていました。本丸には四拾四階の天守が築かれ、水面の映える姿は「瀬田の唐橋からねぎぼし 水に浮かぶは膳所の城」と謡われていました。

膳所城の縄張り

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで勝利し天下を制圧した「徳川家康」は、翌慶長6年(1601年)京の背後の守りと、未だ「豊臣秀頼」が居城し火種がくすぶる「大坂城」への備えの城として、また東海道・中山道・北国街道が通過し、かつ琵琶湖の湖上交通が東海道と合流する要衝の地のこの地「膳所崎」に城を築くことを命じました。

それまで大津には「大津城」が築かれていましたが、「大津城」は背後の山「長等山」からの砲撃射程に入ることから、「家康」はこれをよしとせず、「大津城」を廃してより要衝の地の守りに適した膳所崎の地に「膳所城」を築かせました。「膳所城」の用材は、解体された「大津城」の用材を再利用して築城され、城門等は「膳所城」に多く移築されました。

膳所城大手門のレプリカ

大手門より城下(本丸通)を臨む

「膳所城」の縄張り(設計)は、築城の名手と言われた「藤堂高虎(とうどうたかとら)」が行いました。「高虎」は、それまで膳所崎にながれこんでいた相模川を北方に付け替え、湖の中に石垣を築いて本丸をせり出させ、二の丸とは廊下橋で結んだ水城として縄張りし、本丸北隅に四重四層の天守閣を築き、天守や白壁・塀・櫓などが湖面に写る姿は実に美しかったと云います。

築城にあたっての現場工事については、幕府の8人の普請奉行の下に諸国の大名を動員するという、天下普請の第一号となりました。

本丸西隅の「天守閣跡」の石標

天下普請で築城された城は「江戸城」「大坂城」「名古屋城」など天下に名だたる城でしたので、「家康」が「膳所城」を天下普請第一号に選んだのは、いかに「膳所城」の役割を相当に重要視していたことの現れととらえることができます。また、「家康」が膳所崎の地を選んだ理由として、昔から「瀬田の唐橋を征するものは天下を征する」と言われた軍事上の要衝「瀬田の唐橋」を臨める絶好の地であったからだと云われています。

本丸中央に築かれた「膳所城址」の石碑

始めの「膳所城」は、本丸と二の丸、三の丸が分かれていましたが、「寛文2年に発生した大地震(1662年6月16日・寛文近江若狭地震・M7.5程度・最大推定震度7)」で城郭が大きな被害を受けましたので、それまで分かれていた本丸と二の丸を合体させ、東西が最大80間(144m)、南北最大55間(99m)の規模をもつ本丸として再生しました。本丸の跡は現在、膳所城跡公園となっており、またそれまでの三の丸が二の丸となり、現在は浄水場となっています。

二の丸跡の浄水場(城郭風の外観)と廊下橋

天守閣跡から北の丸方向

本丸前の城壁と堀(レプリカ)

現在の膳所城跡公園北側に位置していた天守閣の規模は、最上階が3間四方(5.4m四方)
で、その下が4間四方(7.2m四方)、その下が5間(9m)×6間(10.8m)、最下層が7間(12.6m)×8間(14.4m)と立派な姿をしていたようです。

資料画像(by Wikipedia)

江戸時代、東海道を旅する人たちにとって、湖水に写る天守閣はひときわ美しかったと見えて、「膳所城」は多くの絵に描き残されています。


「膳所城」の初代城主には、廃された「大津城」の城主であった「戸田一西(とだかずあき)」が3万石の俸禄で就任し、城下町の整備に努めました。元和3年(1617年)「一西」の子「戸田氏鉄(とだうじかね)」が摂津尼崎藩に転封された後、本多氏・菅沼氏・石川氏とサラリーマン城主は異動しましたが、慶安4年(1651年)「本多俊次(ほんだとしつぐ)」が伊勢亀山藩より俸禄7万石で入封(転入)してきました。

この後、膳所城(膳所藩)は「本多氏13代の居城」として明治維新を迎えました。

膳所藩は代々徳川幕府に忠勤に励みましたが、幕末になって尊王攘夷派が台頭し、慶応元年(1865年)には膳所藩の「尊王攘夷派11人(膳所藩十一烈士)」らが、第14代将軍「徳川家茂(とくがわいえもち)」暗殺計画の嫌疑で逮捕・投獄されました。彼らは全員切腹または斬首されました。この事件は後に「膳所城事件」と呼ばれました。(「家茂」は長州征伐の指揮を執るため京に入る予定で、「膳所城」に一泊する予定でした。)

大政奉還後の明治3年(1870年)、「膳所城」は明治新政府の早期樹立を望む藩士たちにより、廃城の太政官布告が出された翌日から天守以下の建物の解体と移築に着手しました。その結果、城郭建物は跡形もなく無くなり、本丸北側の石垣がわずかに残るのみとなり、城門は近くの「膳所神社(本丸大手門)」、「篠津神社(北大手門)」、と草津市内の「鞭崎八幡宮(南大手門)」に移築され、それぞれ現存しており重要文化財に指定されています。

膳所神社に移築された本丸大手門

篠津神社に移築された北大手門

膳所城跡公園に現存する石垣


「麒麟がくる」明智光秀と石鹿地蔵尊

「膳所城跡公園」の一画に、石地蔵の祠があります。この石地蔵は「石鹿地蔵尊」と名付けられています。

元亀2年(1571年)、「織田信長」は比叡山の社寺堂塔を焼き払い、僧俗3千人等の首をことごとく刎ねました。世にいう「比叡山焼き討ち」です。この「焼き討ち」の中心実行部隊を務めたのが「明智光秀」で、「信長」は「焼き討ち」後の戦後処理を「光秀」に命じ「坂本城」を築かせました。「光秀」は「坂本城」の築城に際して、比叡山内にあった石地蔵を全て引きずり降ろし、「坂本城」の礎石にしました。

その後、「本能寺の変」で「信長」が倒れた2年後の天正3年(1575年)、「豊臣秀吉」は「浅野長政」に命じて「大津城」を築かせました。この際の築城の用材は「坂本城」の用材を移築して用い、礎石は「坂本城」の礎石となっていた石地蔵を運んで用いました。

更にその後、関ヶ原の合戦の翌年の慶長6年(1601年)、「徳川家康」は「大津城」を廃城して「膳所城」を築かせましたが、この時も「大津城」の石地蔵を運んで城の礎石としました。

明治3年(1870年)、「膳所城」が廃城となった時、本丸・二の丸・三の丸跡から、これらの石地蔵が約270年ぶりに姿を現しました。

以後城跡の各所に放置されていましたが、昭和38年(1963年)になって、有志によってこの祠が建てられました。現在約60体が祀られています。

石鹿地蔵尊


俳人「松尾芭蕉」の句碑

天守閣跡の石標の湖岸べりに、「松尾芭蕉」の句碑が設置されています。

「湖や 暑さを惜しむ 雲の峰」

・・・琵琶湖の上に高々と立ちのぼっている雲の峰は、夕方の涼しい風が吹き渡ってくるようになっても、まるで昼間の暑さをおしんでいるかのようである。



松尾芭蕉の句碑

「芭蕉」は元禄7年(1694年)、膳所の「能太夫遊刀」の家でこの句を作りました。「義仲寺」の「無名庵」に最後に滞在していたときのことでした。


三等三角点「膳所」

三等三角点が「膳所城跡公園」内にありました。三等三角点「膳所」です。

三等三角点「膳所」

「膳所城跡公園でむかし花見をしたことはありますが、当時は歴史について思いをめぐらすことは全くありませんでした。今回再び訪れてみて、歴史に思いをめぐらせると、今は市民の憩いの場となっている、この城の歴史的な重要性に改めて感慨深く感じたものでした。

膳所城跡公園から「近江大橋」と「近江富士三上山」


アクセス
JR琵琶湖線 膳所駅下車 徒歩20分
京阪電車石坂線 膳所本町駅下車 徒歩5分


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