2020年6月22日月曜日

京都寺町鞍馬口の「西園寺」は明治の元勲「西園寺公望」の祖先「藤原公経」が創建しました。

「西園寺」は、鎌倉時代の公卿「藤原(西園寺)公経」が京都の衣笠山の麓の鹿苑寺(金閣寺)付近に真言宗の寺院として創建したことに始まります。衣笠山の鹿苑寺付近にあった「西園寺」は、その後京都市中の室町に移転した後、豊臣秀吉の「天正の地割」により現在の寺町の地に移りました。

本堂の「西園寺」の扁額 (西園寺公望書)

西園寺(さいおんじ)由緒

寺 号 宝樹山(ほうじゅさん)竹林院(ちくりんいん)西園寺(さいおんじ) 

宗 旨 浄土宗(知恩院末)

御本尊 木造阿弥陀如来座像

創 建 元仁元年(1224年)

創 建 藤原公経(ふじわらのきんつね)が真言宗の寺院として創建

中 興 天文23年(1554年)

中 興 僧「緑譽称念」が浄土宗に改宗

移転年 天正18年1590年)

移 転 室町への移転を経て秀吉の天正の地割により当地(寺町)に移転 

霊場等 洛中四十八願寺第十四願、
洛陽四十八願所地蔵尊第二十番札所

所在地 京都市上京区高徳寺町358(寺町通鞍馬口下ル)

山門

「西園寺」元仁元年(1224年)、鎌倉幕府の太政大臣となった「藤原公経」が、京都の衣笠山の麓の鹿苑寺(金閣寺)に苑地を造り、池畔に本堂・寝殿など壮麗な堂宇を建てて、「西園寺」と称したのが始まりです。

以来、この寺名が子孫の家名となり、「西園寺」も西園寺家の北山山荘として子孫に受け継がれました。

「藤原公経」は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿で歌人としても名をなしています。「公経」は内大臣藤原実宗の子で、「藤原定家」の義弟です。承久3年(1221年)の承久の乱に際して鎌倉幕府に内通し、乱後は幕府の権力を背景に内大臣、太政大臣まで昇り詰めました。「西園寺家」の実質的な祖とされています。

「公経」は歌人としても知られており、ペンネーム「入道前太政大臣(にゅうどうさきのだいじょうだいじん)」として「新勅撰和歌集」に選ばれた一首が「小倉百人一首」にも選ばれ、現代までも詠い継がれています。

小倉百人一首「入道前太政大臣」(資料画像by Wikipedia)

「花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり」

開山堂の前の歌碑

この歌の意味は、「桜の花を誘うように嵐の吹く庭に、降り落ちるのは、雪のような花ではなく、本当は年をとって衰えていく、私自身なのだなあ。」というようなことです。

本堂

「西園寺」はその後、南北朝時代の文和元年(1352年)室町幕府の第3代将軍「足利義満」「北山殿(金閣寺)」を造営するにあたってその地を所望したため、やむなく「西園寺」は京都上京区の室町(現在の京都市上京区竹園町付近)に移りました。

室町時代末期の天文23年(1554年)、僧「緑譽称念」が中興して宗旨を浄土宗に改めました。

さらに天正18年(1590年)、豊臣秀吉の京都の都市計画「天正の地割」によって、京都市中の寺院が新しく造られた南北の通り「寺町通り」に集められ、この際「西園寺」も同様にこの地(寺町鞍馬口下ル)に移転させられました。

鐘楼

その後江戸時代後期の天明8年(1788年)、京都市中を火の海にした「天明の大火」によって、「西園寺」も焼失しました。

現在の本堂は、天明の大火後に再建されたもので、正面には明治・大正・昭和の三時代にわたって政界で活躍した「西園寺公望(さいおんじきんもち)」の書による寺号の扁額を掲げています。

本堂には、平安時代中期の天台宗の高僧恵心僧都(えしんそうず)」の作と伝えられている、ご本尊「木造阿弥陀如来像」(重要文化財)が安置されています。

本堂前の「十三重の塔」


地蔵堂

「延命地蔵経四十八身応現 第二十転輪聖王身」

「地蔵堂」には「槌留地蔵大菩薩(つちどめじぞうだいぼさつ・土止地蔵)」を安置しています。衣笠山の麓の旧西園寺の功徳蔵院の遺仏であると云われています。右手は垂れ、左手に宝珠を掲げています。鎌倉時代の作と云われています。

「槌留地蔵大菩薩(土止地蔵)」の名の由来は、天台宗の高僧「恵心僧都源信」の説く地獄極楽の教えで、清流(横川・よかわ)の流れを土止めして、転輪聖王地蔵菩薩として再現したことによると云います。悪事を打ち止めして、善事を励ますと云います。

地蔵堂の壁には、江戸時代中期の天明年間の絵師「小泉直晃」の作とされる、地獄・極楽図が描かれています。

因果の教えを信じ、地獄に落ちるような悪事は打ち止めにして、極楽浄土に生まれるような善事(お念仏)に励みましょうという願いがあって、この地蔵堂は建立されたということです。

地蔵堂

槌留地蔵大菩薩

堂内壁面に描かれた地獄・極楽図(一部)


開山堂

「開山堂」には、「藤原公経」の法体姿の木像が安置されていますが、厨子の中に納められていますので、通常は拝観することはできません。

開山堂

開山堂

堂内の厨子


辯天堂

「辯天堂」には、琵琶を持つ「弁財天(弁才天弁天)」が祀られています。「弁財天」は妙音天とも美音天ともいいますが、もとは学問や弁舌音楽などを司るインドの神で、楽器の琵琶は弁財天の象徴です。「弁財天」は中国では天女の形姿をとり、日本では財宝の神として七福神の一つに数えられています。「西園寺家」は代々天皇、上皇に琵琶の秘曲を伝授してきた宗家で、「公経」の北山殿の「西園寺」にも「妙音堂」を建てて弁財天を祀り、以後琵琶の相伝も「妙音堂」で行われました。「妙音堂」は近世になって京都御所内の西園寺邸に祀られ、その縁により「西園寺」境内にも「辯天堂」が建立されました。

辯天堂


稲荷大明神

稲荷大明神

稲荷大明神


梵鐘の4つの穴

梵鐘は、太平洋戦争中の戦時供出により没収されて、岡山県の銅精錬所に送られ、溶解直前に終戦を迎え、寺に戻されました。梵鐘中央の4つの穴は、銅の質を検査するため空けられた穴です。戦争の悲惨さの象徴として、後世に語り継ぎたいものです。

梵鐘の中央部に4つの穴


境内風景

左側に辯天堂・開山堂があります

石のモニュメント

恵心僧都の石像

法然上人の青年時代


西園寺外観

寺町通りに面した「西園寺」山門と漆喰塀

「西園寺」は、「地蔵堂」の「槌留地蔵大菩薩(土止地蔵)」にまつわる「地獄・極楽図」などワクワク・ドキドキするようなものもある、大変興味深いお寺でした。是非お参りください。


アクセス
京都市営地下鉄烏丸線「鞍馬口駅」下車 徒歩6分


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