2020年5月13日水曜日

京都市上高野の「崇道神社」は冤罪を恨んで亡くなった早良親王をお祀りしています

京都市上高野の若桜街道(鯖街道)沿いに鎮座する「崇道神社(すどうじんじゃ)」は、奈良時代末期の「早良親王(さわらしんのう)」を御祭神として祀る神社です。早良親王は暗殺事件の首謀者として捕らえられ、淡路島に流される途中、無実を主張し冤罪を恨んで、抗議の絶食の末に亡くなりました。早良親王の死後、都では不可解な事件や疫病が流行し、早良親王の祟りと恐れられました。

一之鳥居
崇道神社(すどうじんじゃ)御由緒 

名 称
崇道神社(すどうじんじゃ)

御祭神 
早良親王(さわらしんのう・第49代光仁天皇の皇子で第50代桓武天皇の実弟) 

創 建
貞観年間(859年~877年) 詳細不詳

御神紋
左三ツ巴

社格等
式内社

境内社
・伊多太神社(式内社) 御祭神:伊多太大神(いたたおおかみ)
・出雲高野神社(式内社)御祭神:玉依姫命(たまよりびめのみこと)
・小野神社(式内社)  御祭神:小野毛人(おののえみし)・小野妹子(おののいもこ)
・天照大神・豊受大神
・春日大神・赤山大神・十二社大神
・恵比須大神・貴布祢大神・日吉大神
・宇佐八幡大神・北野天満大神・市杵嶋姫大神・弁財天大神
・鎌倉大神・日吉大神・三穂津大神・三輪大神・足之大神・教之大神

例大祭
5月5日

別 名
高野御霊

所在地
京都市左京区上高野西明寺山町34

「崇道天皇(すどうてんのう)」を御祭神として祀る神社は他にもありますが、「崇道天皇」のみを御祭神としているのは、「崇道神社(すどうじんじゃ)」だけです。

長い上りの、木々に囲まれた参道を歩くと、少しひんやりとして、「早良親王」の怨霊がただよっているのかと錯覚してしまいそうです。

二之鳥居
「早良親王(さわらしんのう)」は、奈良時代末期の皇族で天平勝宝2年(750年)に第49代「光仁天皇(こうにんてんのう)」「高野新笠(たかのにいがさ)」の皇子として生まれました。平安遷都を成し遂げた第50代「桓武天皇(かんむてんのう)」の同母弟でもあります。皇位継承していないため、歴代天皇には数えられていません。

「早良親王」は母方が下級貴族(百済系渡来人)であったことから、自身の立太子は望まず、天平宝宇5年(761年)11歳で出家し、東大寺に住んでいました。当時「親王禅師(しんのうぜんじ)」と呼ばれていました。天応元年(781年)31歳のときに、兄の桓武天皇の即位と同時に光仁天皇の勧めで環俗し、立太子しました。桓武天皇の皇子が幼かったため、幼帝として即位することを避けるため、後継対策としての皇位継承予備要員として、立太子させられたのではないかとの説もあります。

三之鳥居
ところが延暦4年(785年)、桓武天皇の寵臣の造長岡宮使(長岡京造営のための官吏)であった「藤原種継(ふじわらのたねつぐ)」の暗殺事件が勃発し、「早良親王」はこの事件の首謀者として、また天皇擁立計画もあったとして逮捕されました。「早良親王」は皇太子の地位を剥奪されたうえ、長岡京の乙訓寺に幽閉されました。その後まもなく、淡路島に島流しされることとなり、淡路島への途中でも無実を訴えるために絶食し、結果亡くなってしまいました。享年35歳でした。亡骸は淡路島に運ばれました。

この暗殺事件は、桓武天皇の第一皇子「安殿親王(あてしんのう・第51代平城天皇)」の擁立に伴う謀略という説、桓武天皇の長岡京への遷都政策をよしとしない勢力の謀略という説などがあります。いずれにしても「早良親王」は冤罪で逮捕され、亡くなったということで、怨みを抱きながら亡くなったことは想像に難くないところです。

「早良親王」の死後、桓武天皇の妃「藤原旅子(ふじわらのたびこ)」の病死や、生母の「高野新笠」や皇族方の病死が続き、また疫病や洪水などが相次ぎ、人々はこれらの災厄は「早良親王」の祟りと怨霊によるものだとして、幾度か鎮魂の祭礼を執り行いました。ところが、それでも災厄は止まず、延暦19年(800年)「崇道天皇」を追号し、更に淡路島の陵墓に陰陽師や僧を派遣して、陳謝させたうえで墓守を置きました。それでも怨霊への恐れが収まらない桓武天皇は、「早良親王」の陵墓を大和国の現在の「八島陵」に改葬しました。

以後も、「早良親王」の怨霊は長く平安貴族を悩ます祟りとして畏れられました。

参道石段から本殿
「崇道神社」は、平安時代初期の貞観年間(859年~877年)に創建されたということです。(詳細不詳)

「崇道神社」は、平安京の大極殿の北東の鬼門の方角にあり、上高野の西明寺山麓にあります。大原を経由して若狭・小浜に向かう若桜街道・鯖街道沿いにあります。

かつては、「高野御霊」、「高野村御霊社」、「高野社」、「天王さん」とも呼ばれていました。

本殿(手前は拝所)
本殿拝所
本殿
本殿
伊多太神社

「伊多太神社(いたたじんじゃ)」は、御祭神に「伊多太大神(いたたおおかみ)」を祀る、上高野最古の神社で、この地の氏神であり、王城鎮護の神としても崇敬されました。また、「湧水の神」「農業神」でもあります。延喜式の式内社に列せられています。

「伊多太」は「湯立て」という豊作祈願の神事を意味し、出雲系の農耕守護神とされます。元は上高野大明神町にありましたが、応仁の乱で焼失し、明治16年(1883年)に再興され、明治41年(1908年)に「崇道神社」に合祀されました。上高野大明神町には旧跡が保存されています。

伊多太神社
本殿

出雲高野神社

「出雲高野神社」の元の鎮座地の詳細は不明で、古くに廃社されたということです。高野の地にあったか、あるいは京都市街出雲郷一帯か、出雲路橋付近か諸説分かれるところです。御祭神に「玉依姫命(たまよりひめのみこと)」をお祀りしています。延喜式の式内社に列せられています。

大正4年(1915年)に「崇道神社」境内に再建され、昭和51年(1976年)に社殿が再建されました。

右側の社が「出雲高野神社」

小野神社

「小野氏」は、大和国添上郡和爾(現在の天理市)に勢力を持っていた「和爾氏(わにし)」が滋賀県大津市北部の琵琶湖西岸(現在の大津市和爾地区、小野地区)に勢力を移し、「小野氏」として地域に勢力を広げていきました。「小野氏」は「小野妹子(おののいもこ)」、「小野篁(おののたかむら)」、「小野道風(おののとうふう)」、「小野小町(おののこまち)」など歴史に名を遺す人物を輩出しています。「小野氏」は、やかて山城国愛宕郡小野郷上高野一帯(現在の京都市左京区上高野)にも勢力を広げ、この地をも根拠地としました。

当神社の御祭神の「小野毛人(おののえみし)」は、「小野妹子」の子で飛鳥時代の上級官吏でした。天武6年(677年)に没したとされています。当神社の境内の上高野一帯を見渡す山腹の墓から、鋳銅製の墓誌が発見され、この墓が「小野毛人」を埋葬したものであることが明らかになりました。墓は大正4年(1915年)に調査され、板石で作られた石室は長さ約2.5m、幅と高さ共約1mで当初は封土されていたものとみられています。

「崇道神社」の地は「小野神社」の旧地でしたが、当初は境内の川向にある御旅所、里堂の2mほどの石垣の上の祠に祀られていたと云います。延喜式の式内社に列せられています。後に「小野氏」の衰微により鎮座地を失いました。

その後、大正4年(1915年)に「崇道神社」境内に再建され、昭和46年(1971年)現在の神社が再建されました。

小野神社
「小野神社」の手前に「小野毛人朝臣之墓」の道標があります。この山道を140m登ると墓に行けるようです。次回は行ってみたいと思います。

「小野毛人朝臣之墓」への道標

境内摂社末社他

天照大神・豊受大神

左の社の 右「天照大神」 左「豊受大神」
春日大神・赤山大神・十二社大神

春日大神・赤山大神・十二社大神

恵比須大神・貴布祢大神・日吉大神

恵比須大神・貴布祢大神・日吉大神
宇佐八幡大神・北野天満大神・市杵嶋姫大神・弁財天大神

宇佐八幡大神・北野天満大神・市杵嶋姫大神・弁財天大神
鎌倉大神・日吉大神・三穂津大神・三輪大神・足之大神・教之大神

左から三穂津大神・日吉大神・三輪大神・鎌倉大神・足之大神・教之大神
如意輪観世音大菩薩

如意輪観世音大菩薩
五味藤九郎之碑

江戸時代前期の延宝5年(1677年)、当時の土木技師でもあった2代目京都代官「五味藤九郎(ごみとうくろう)」は、上高野南部地域の灌漑用水を確保するため、現在の叡山電鉄八瀬比叡山口駅の上流の高野川左岸から、上高野南部地域までの間に、新たに「李井堰(すももいせき)」と用水路を完成させました。工事の最難関部の御蔭神社の山裾の口の隧道は長さ63m、高さ1m、幅75cmの岩盤を人力で掘り進め、隧道中央部は水流による浸食に耐えられるように20度屈折させるなど高い土木技術取り入れられています。この用水路は現在も上高野南部地域を潤しています。

延宝5年(1677年)、「五味藤九郎」の功績を称えて、村人により「崇道神社」参道に顕彰碑が建てられました。

五味藤九郎之碑

「崇道神社」は、冤罪を恨みながら亡くなった「早良親王」の怨霊がさまようかのような雰囲気もありますが、凛とした空気に包まれて心を洗われるような気持にもなります。地域の産土神として多くの人々の崇敬を集めている「崇道神社」に是非お参りください。

アクセス
JR京都駅から京都バス17系統または18系統(土曜休日のみ運行)大原行に乗車
「上橋(かんばし)」バス停にて下車 徒歩すぐ


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