2020年4月30日木曜日

京都東山の「法住寺」の身代わり不動尊はあらゆる災厄からお護りくださいます

京都市東山区三十三間廻り町の「法住寺(ほうじゅうじ)」のご本尊の「不動明王」は、「身代わりさん」と呼ばれ、あらゆる災厄から身代わりとなってお護りくださいます。
「法住寺」は、漫画「サザエさん」の作者「長谷川町子」が生前に本寺を訪れた際に、静かでいいところと気に入り、菩提寺として没後に遺骨の一部が分骨されました。

「法住寺」山門
法住寺(ほうじゅうじ)由緒

寺 号 南叡山(なんえいざん)法住寺(ほうじゅうじ) 

宗 旨 天台宗

御本尊 不動明王

創 建 永祚元年(989年)

開 山 藤原為光(ふじわらのためみつ)

別 称 後白河法皇御所聖蹟

所在地 京都市東山区三十三間堂廻り町655

山門の「法住寺」の扁額
平安時代中期の公卿「右大臣藤原師輔(ふじわらのもろすけ)」の九男「藤原為光」は、寛和元年(985年)に妻と第65代花山天皇の女御であった娘「忯子(しこ・17歳)」を相次いで亡くしており、永祚元年(989年)亡くなった二人の菩提を弔うために「法住寺」を創建しました。

「為光」は右大臣・従一位の地位まで昇進していましたが、現世の栄華栄達をきっぱりと捨て、「法住寺」で念仏三昧の生活を送りました。正暦3年(992年)「為光」が亡くなって後も、「法住寺」はしばらくは子孫によって守られてきましたが、長元5年(1032年)九条邸(現在の京都御苑南西付近)から燃え広がった火災により焼亡しました。その後約120年間「法住寺」に関する大規模な再建などはありませんでした。

創建当時の寺域は、南は八条通りから北は七条通りより更に北に延び、東は法輪寺(今熊野観音)の旧域を除いて東山の山裾に及び、西は現在の大和大路にまで及んでいたということで大変に広大なものでした。

法住寺境内 阿弥陀堂前の白梅
その後、保元3年(1158年)第77代「後白河天皇」は皇位を皇子の「二条天皇」に譲り、「後白河上皇(ごしらかわじょうこう)」となって「法住寺」の地を院の御所と定め、自身は応保元年(1161年)に新造の御所に遷りました。新造された御所は「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」と呼ばれ、その敷地は十余町歩(30000坪以上)あったと云われ、平家をうしろだてにした上皇の権威で、周囲の建物は取り壊され、広大な敷地に南殿、西殿、北殿の三御所がつくられました。狭義の「法住寺殿」はこの南殿を云います。南殿には上皇の住まいとともに、東小御堂、不動堂、千手堂がたちならび、敷地内には広大な池もありました。

長寛元年(1163年)には、「平清盛」の寄進で「蓮華王院(三十三間堂)」が南殿の北側に造立されました。

左側が三十三間堂 右側が法住寺
また、新日吉神社、新熊野本宮も「法住寺殿」内に建立され、仁安2年(1167年)には「法住寺殿」内の上皇御所の新造も成り、更には新御堂・不動堂も建立して寺観はますます栄華盛大を極めました。

安元2年(1176年)、「後白河上皇」の女御「建春門院(けんしゅんもんいん・平滋子)」が亡くなると、女御の御陵として「法華堂」が建てられました。

「後白河上皇」と平家の栄華を誇っていた「法住寺殿」でしたが、平安時代末期になり「平清盛」が亡くなって2年後の寿永2年(1183年)、平家討伐の命を受けた「木曽義仲(きそよしなか)」の軍勢によって、「法住寺殿」南殿に火がかけられました。(法住寺合戦) このとき「後白河上皇」は輿(こし)に乗って新日吉神社に向け逃亡、以後「後白河上皇」は六条西洞院の「長講堂」に遷りそこで生涯を終えました。

その後「後白河上皇」の崩御により、焼失した「法住寺殿」の敷地に新たに「法華堂」が造られ、「後白河上皇」の御陵「法住寺陵」と定められました。現在「法住寺」山門の南側の「竜宮門」には、「旧御陵正門」の石標が立てられています。

竜宮門 中央石標「旧御陵正門」左側石標「法住寺殿蹟」
竜宮門の前に「法住寺法華堂陵前」の石灯篭と、「あそびせんとやうまれけん」と刻まれた歌碑があります。

竜宮門前の石灯篭と歌碑
現在の「後白河天皇法住寺陵」正門
宮内庁表札
後白河天皇 法住寺陵
後白河天皇 法住寺陵
御陵境内の「法住寺」の刻印の手水鉢(江戸時代)
法住寺創建当時の「桐の井」の井戸
その後「法住寺」は、「後白河上皇」の御陵を守る寺院として、江戸時代末期まで長く存続しました。

豊臣秀吉の政権下では、すぐ北にあった「方広寺(大仏殿)」が「法住寺」や蓮華王院(三十三間堂)の寺域を包摂するということもありましたが、江戸時代の徳川幕府によって「法住寺」の北東にある「妙法院(青蓮院・三千院とともに天台三門跡と並び称された寺院)」と一体視され、「法住寺」は「妙法院門跡」「院家(門跡寺院の別院)」として待遇されました。なお、「妙法院」に住持した歴代の法親王(門跡)の陵墓も「法住寺」にあります。

(余談ですが、なんとこのあたりに「坂本龍馬」が住んでいたのですね。)

「法住寺」駐車場南の「方広寺」石標
明治時代に入ると、「後白河天皇陵」と「妙法院門跡親王陵」が寺域から分離され、宮内省(現在は宮内庁)の管轄となりました。


不動堂

「法住寺」のご本尊「不動明王像」は、平安時代の天台座主「慈覚大師(円仁・えんにん)」作の木像の立像で、「身代わり不動尊」と呼ばれています。寺の信者からは「身代わりさん」と親しみを込めて呼ばれています。(残念ながら不動堂の堂内は写真撮影禁止です。)

本堂(不動堂)
「木曽義仲」との「法住寺合戦」の際に、「木曽義仲」が院の御所に攻め入ったとき、「後白河上皇」があやうく命を落としかけたところ、時の天台座主の「明雲大僧正」が敵の矢に倒れ「後白河上皇」は、なんとか難を逃れることができました。この逸話から「不動明王」は国家安泰の守護仏と崇められ、歴代の天皇・公家・武家、そして民衆も厄除け・方除けを祈念するようになりました。

本堂(不動堂)
江戸時代中期の元禄年間に世間を騒がせた「赤穂事件の吉良邸討ち入り」で首領となった「大石内蔵助(おおいしくらのすけ)」が、京都の山科の「岩屋寺(いわやじ)」に隠棲中に、京都で同志と密談を交わす道すがら、「法住寺」に立ち寄り、仇討ちの大願成就を祈願したことでも知られています。「法住寺」には「赤穂義士四十七士」の木像が安置されています。(残念ながら不動堂の堂内は写真撮影禁止です。)


親鸞聖人自刻の阿弥陀如来像

「法住寺」には、建久2年(1191年)浄土真宗の宗祖「親鸞聖人」が、比叡山延暦寺で「範宴(はんねん)」として修業中の18歳の頃、自ら刻んだ「阿弥陀如来立像」が安置されています。この像し「聖人山刀(なた)作の如来像」と呼ばれ、背に其心という朱印が二つ押され、足には「親鸞聖人」の花押が朱と墨で三字記されています。(残念ながら不動堂の堂内は写真撮影禁止です。)


親鸞聖人のそば食い木像

「親鸞聖人」28歳の時の自刻の自坐像です。鎌倉時代の建仁元年(1201年)比叡山で修行中の「範宴(はんねん)」は、修行中の無量寿院より秘かに下りて100日間の六角堂参篭を行っていましたが、同宿の僧が怪しみ師(座主)に密告しました。師は衆僧を集めて蕎麦をふるまう名目で「範宴」の所在を確かめようとしました。すると自刻の「坐像」が留守の「範宴」に代わり蕎麦を食べ、返事までして、見事に居留守の役割を果たしたということです。(残念ながら不動堂の堂内は写真撮影禁止です。)

山門前の「親鸞聖人そばくひ御木像」の石標

阿弥陀堂

阿弥陀堂


「サザエさん」の作者「長谷川町子」の菩提寺

「法住寺」は、漫画「サザエさん」の作者「長谷川町子」が菩提寺としても知られています。生前「長谷川町子」は、「平家物語」の取材で「法住寺」を訪れています。この際この寺の環境をいたく気に入り、当時の住職と親交を持ったことが機縁となって、「長谷川町子」没後に遺族から遺骨の一部が「法住寺」に分骨されました。


豊川吒枳尼天・厳島弁財天他お堂

境内には「豊川吒枳尼天(だきにてん)」、「厳島弁財天」、「白峰弁財天」、「竹男大龍神」、「毘沙門天王」、「護法魔王尊」をお祀りした堂があります。

「商売繁盛」のご利益があると信仰されています。

豊川吒枳尼天・厳島弁財天他お堂
豊川吒枳尼天・厳島弁財天他お堂


福寿観音と六地蔵

福寿観音
六地蔵

「法住寺」は、京都市内の比較的にぎやかな地にあって、激しい歴史の荒波を乗り越えてきた荒々しい寺院ですが、一歩境内に入ると静寂な雰囲気の寺院でもあります。是非とも歴史と静寂を同時に感じながらご参拝ください。


拝観案内
拝観時間 毎日 9時~16時30分
拝観料  境内無料、堂内・庭園は500円(案内冊子付)

アクセス
京阪電鉄京都線七条駅下車 東方向へ徒歩約10分


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