2020年4月26日日曜日

忠臣蔵の「大石内蔵助」は京都山科の「岩屋寺」で秘かに時を待ちました

京都市山科区西野山の「岩屋寺(いわやじ)」は、境内に江戸時代中期に起こった赤穂事件で、主君の仇討ちの首領となった「大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)」の閑居跡があることで知られています。曹洞宗の尼寺で、本堂には「大石内蔵助」の遺髪や遺品なども安置し、「大石寺岩屋禅寺(おおいしじいわやぜんじ)」とも呼ばれています。

年参道入口の「大石大夫閑居跡」の標石
岩屋寺(いわやじ)由緒

寺 号 神游山(しんゆうざん)金地院(こんちいん)寺(いわやじ) 

宗 旨 曹洞宗永平寺派の尼寺

御本尊 大聖不動明王

創 建 創建年代等不詳
    寛平9年(897年)に創建された山科神社の神宮寺として開かれた)

開 山 委細不詳

別 称 大石寺岩屋禅寺(おおいしじいわやぜんじ)

霊場等 近畿36不動尊第24番霊場
    尼寺36所12番霊場

所在地 京都市山科区西野山桜の馬場町96

参道の階段
「岩屋寺(いわやじ)」は、創建の詳細は不明ですが、平安前期の寛平9年(897年)時の天皇内59代「宇多天皇」の勅命により創建された、「山科神社(やましなじんじゃ)」の北隣に神宮寺として開かれたと云われています。開山当初は「天台宗」に属し、「比叡山三千坊」の一つでした。

その後荒廃し、11世紀(年代不詳)に山科の真言宗山階派「門跡寺院勧修寺(もんぜきじいんかじゅうじ)」の末寺となって宗旨変えしましたが、元亀2年(1571年)の織田信長による「比叡山延暦寺焼き討ち」の際の兵火を始めとして、幾度かの兵火で焼失しました。

「岩屋寺」は江戸時代初期の明暦2年(1656年)に再興されましたが、再び衰微してしまいました。

江戸時代中期の元禄期に入り、徳川幕府の政権運営も安定期を迎え、民衆も浮かれ気味になっていたころ、世間を揺るがす大事件「赤穂事件」が発生しました。

元禄14年(1701年)3月、赤穂藩主の「浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)」が江戸城内の松の廊下において、高家(江戸幕府の儀式や典礼を司る役職)旗本の「吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)」に対し刃傷におよび、「内匠頭」は即日切腹を命ぜられ、御家は断絶、領地没収となりました。

幕府の処分の報を受けて赤穂藩内では、籠城徹底抗戦派と城明け渡し恭順派に別れて議論が紛糾しました。当時赤穂藩の城代家老であった「大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)」は、両者の意見を取りまとめ、城を明け渡した上で幕府に対し「浅野家再興」と「吉良上野介」に対する処分を求める嘆願書をとどけるということで決しました。幕府に対する嘆願書は数度にわたってとどけましたが、願いは聞き入れられず幕府の収城軍に赤穂城を明け渡し、残務整理を終えた「大石内蔵助」は城を後にしました。

城明け渡しの後、元禄14年(1701年)6月、山科のこの地に田地・屋敷を保有していた親類の「遠藤源四郎」の世話でこの地に移りました。当時は天台宗の寺院「岩屋寺」の門前は閑静で人目につきにくく、かつ交通に便利(一山超えると京の都)で、浅野家再興の政治工作にうってつけの土地でした。

参道の桜 右手は「大石内蔵助」閑居跡
岩屋寺門前の「大石内蔵助」閑居跡
「大石内蔵助」は、「岩屋寺」の門前に閑居を新築し、ここで元禄14年(1701年)6月から元禄15年(1702年)9月まで住んで、旧赤穂藩の同志たちと密会を重ね、浅野家再興を謀り嘆願書を幕府に送りつつ、主君の仇討ちの機会もうかがっていました。

岩屋寺門前の「大石内蔵助」閑居跡
結局、浅野家再興の願いは聞き入れられることはありませんでしたので、機は熟したとして元禄15年(1702年)9月、「吉良上野介」を討つべく「吉良邸討ち入り」方針を決定し、同志たちは秘かに江戸に集結しました。

元禄15年(1702年)12月14日「大石内蔵助良雄」以下四十七士は吉良邸へ向かい、吉良邸の表門には「大石内蔵助」を頭として「片岡源右衛門」ら24名、裏門からは「大石主税」を頭とし「堀部安兵衛」ら23名が、両門より邸を襲撃し、翌12月15日朝6時ころ本懐を遂げました。

大石神社の「大石内蔵助」討ち入り装束の像
その後、「大石内蔵助」ら四十七士は、細川・松平・毛利・水野の四大名家に分けてお預けの身となり、幕府の御沙汰を待ちました。幕府の評議のなかでは仇討ちを義挙とする意見も多く、助命か死罪かで意見が分かれましたが、結局天下の法を曲げることはできないとして、元禄16年(1703年)2月4日、四十七士全員に切腹が命ぜられました。

「大石内蔵助」は、お預けの身となっていた細川家で「岩屋寺」の門前の閑居や田畑を「岩屋寺」に寄進することを告げた後、切腹しました。享年45歳でした。亡骸は主君「浅野内匠頭」と同じく高輪「泉岳寺」に葬られました。「大石内蔵助」の遺髪は、「寺坂吉右衛門(四十七士唯一の生存者)」が山科の「進藤源四郎」に届け、その後「岩屋寺」境内に葬られました。

「大石内蔵助」遺髪塚
「大石内蔵助」遺髪塚
「岩屋寺」は、この事件の後再び衰退しました。

その後、江戸時代末期の嘉永年間(1848年~1854年)、京都町奉行「浅野長祚(あさのながよし)」らの寄進を受けて「堅譲尼(けんじょうに)」が、曹洞宗の尼寺として再興しました。本堂は棟札と鬼瓦銘から、嘉永7年(1854年)に再建されたものと確認されています。

山門
山門から本堂
本堂と「光明不動尊」
本堂
「本堂」に安置されているご本尊の「大聖不動明王(ふどうみょうおう)」は、「大石内蔵助」の念持仏(私的に礼拝するための仏像)であったとされています。「不動明王像」は平安時代前期の天台宗寺門派宗祖「智証(ちしょう)大師」の作と云われ、秘仏となっていますが、義士まつりの12月14日から翌年の初不動の1月28日にかけて特別開帳されています。

本堂には、その他「大石内蔵助」が生前作らせた「浅野内匠頭」と「四十七士」の位牌が並べられています。

毘沙門堂(木像堂)
「毘沙門堂(びしゃもんどう)」は、明治34年(1901年)に建てられ、四十七士の木像が並べられています。

可笑庵
「可笑庵(かしょうあん)」は、「大石内蔵助」の閑居の建物の古材を使用して建てた茶室で、庵の入口付近には「大石内蔵助」手植えの梅の大木があり、毎年花を咲かせています。

「大石内蔵助」手植えの梅の木
大石弁財天と手水
大石弁財天
石畳の石臼
桃中軒雲右衛門寄贈の石灯篭
「桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん・明治から大正の代表的な浪曲師)」が寄贈した石灯篭がありました。


参道の脇には「稲荷大社」と「地蔵堂」があります。

稲荷大社
地蔵堂



「岩屋寺」は、市街地の喧騒から少し離れた地にあり、「大石内蔵助」を偲んでひっそりと建っています。「忠臣蔵」ファンの方必見の寺院です。桜の季節、青もみじの季節、紅葉の季節、雪景色の季節と四季折々に異なる風景で迎えてくれることでしょう。


アクセス
JR琵琶湖線山科駅下車 山科駅で京阪バス29C系統乗車大石神社バス停前下車徒歩5分


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