「小野神社」の社殿は、古墳の上に建っているといわれ、また境内の森も凛としており、その名も「パワーの木」と称する神木もあり、霊気あふれるパワースポットです。
小野神社(おのじんじゃ)御由緒
御祭神
主祭神
天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)
(第五代孝昭天皇の第一皇子で、小野氏族の始祖、近江国造りの祖とされています。)
配祀神
米餅搗大使主(たがねつきのおおかみ)
(小野氏の始神で、餅の原形となる「糈(しとぎ)」を最初につくったと云われています。)
天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)
(第五代孝昭天皇の第一皇子で、小野氏族の始祖、近江国造りの祖とされています。)
配祀神
米餅搗大使主(たがねつきのおおかみ)
(小野氏の始神で、餅の原形となる「糈(しとぎ)」を最初につくったと云われています。)
御神紋
三ツ目
創 建
推古天皇の時代に小野妹子がこの地に住んで氏神社として奉祀したと伝えられています。
創 基
小野(朝臣)妹子(おののいもこ)
境内摂社
小野篁神社
御祭神:小野篁(おののたかむら)
御祭神:小野篁(おののたかむら)
八幡神社・松尾神社
飛地境内摂社
小野道風神社
御祭神:小野道風(おののとうふう)
例 祭
11月2日「糈(しとぎ)」祭
所在地
滋賀県大津市小野196
ご利益
厄除け・御菓子業の神様
由緒書によると「小野神社」は、小野一族の祖であるとともに「餅と菓子の匠・司」の始祖の第五代孝昭天皇の第一皇子「天足彦国押人命」と、同命から数えて七代目の「来餅搗大使主」の二神を祀っています。「小野神社」は「御餅と御菓子作りの神様」です。
平安中期に編纂された格式の一つ延喜式の神名帳には、「近江国滋賀郡の名神大社(官幣大社)三座のうちの二座は、小野神社の二座(小野神社・小野篁神社)」と記載されており、「小野神社」は古より格式の高い神社であったことが分かります。
「古事記」によると「天足彦国押人命」は、孝昭天皇の第一皇子で「春日」「大宅」「栗田」「小野」「栃木」「大坂」「安濃」「多岐」「羽栗」「都怒山」「伊勢」「飯南」「一志」「近江」の国造の祖であると記されています。
また、「日本書紀」には「天足彦国押人命」は、「大和和邇一族(大和国添上郡和邇・現在の天理市和邇町を本拠とした古代豪族で、後に琵琶湖西岸の地を有したことからこの地を「和邇」と称することになりました)」の祖であると記されています。
小野一族は、大和朝廷成立以前この地において、今の大阪府・京都府・奈良県・三重県・愛知県・滋賀県の広い地域を統治していた王族で、諸国に多い小野の地名、氏族の発祥地・祖神となっています。
「古事記」や「日本書紀」の小野一族が膨大な権勢を誇っていたという記述について、話半分に理解するとしても、それなりの権勢を持った一族が現在では琵琶湖西岸の片田舎でしかないこの地に住んでいたということは、驚きです。
琵琶湖西岸には、「和邇」や「蓬莱」、「比良」といった地名があります。また小野地域には古代の「たたら製鉄」の遺跡もあり、古墳も大量に発見されていることから、多くの朝鮮半島からの渡来人の技術者がここに移り住んで、その技術力を武器に権勢を広げていったのではないかというのは、想像に難くありません。
なお、小野一族の後裔の「小野道風」は、菓子業の功績者に「匠」「司」の称号を授与することを許可していたということです。現在菓子業に「匠」「司」の免許の制度はありませんが、老舗の屋号に「匠」「司」が使用されることは、今もその名残として受け継がれています。
「小野神社」拝殿前には、「鏡餅」を模した「狛犬」が配置されています。さすが「餅」の始祖をお祀りしている神社です。
小野篁神社
由緒書によると「小野神社」は、小野一族の祖であるとともに「餅と菓子の匠・司」の始祖の第五代孝昭天皇の第一皇子「天足彦国押人命」と、同命から数えて七代目の「来餅搗大使主」の二神を祀っています。「小野神社」は「御餅と御菓子作りの神様」です。
平安中期に編纂された格式の一つ延喜式の神名帳には、「近江国滋賀郡の名神大社(官幣大社)三座のうちの二座は、小野神社の二座(小野神社・小野篁神社)」と記載されており、「小野神社」は古より格式の高い神社であったことが分かります。
「古事記」によると「天足彦国押人命」は、孝昭天皇の第一皇子で「春日」「大宅」「栗田」「小野」「栃木」「大坂」「安濃」「多岐」「羽栗」「都怒山」「伊勢」「飯南」「一志」「近江」の国造の祖であると記されています。
また、「日本書紀」には「天足彦国押人命」は、「大和和邇一族(大和国添上郡和邇・現在の天理市和邇町を本拠とした古代豪族で、後に琵琶湖西岸の地を有したことからこの地を「和邇」と称することになりました)」の祖であると記されています。
小野一族は、大和朝廷成立以前この地において、今の大阪府・京都府・奈良県・三重県・愛知県・滋賀県の広い地域を統治していた王族で、諸国に多い小野の地名、氏族の発祥地・祖神となっています。
「古事記」や「日本書紀」の小野一族が膨大な権勢を誇っていたという記述について、話半分に理解するとしても、それなりの権勢を持った一族が現在では琵琶湖西岸の片田舎でしかないこの地に住んでいたということは、驚きです。
琵琶湖西岸には、「和邇」や「蓬莱」、「比良」といった地名があります。また小野地域には古代の「たたら製鉄」の遺跡もあり、古墳も大量に発見されていることから、多くの朝鮮半島からの渡来人の技術者がここに移り住んで、その技術力を武器に権勢を広げていったのではないかというのは、想像に難くありません。
なお、小野一族の後裔の「小野道風」は、菓子業の功績者に「匠」「司」の称号を授与することを許可していたということです。現在菓子業に「匠」「司」の免許の制度はありませんが、老舗の屋号に「匠」「司」が使用されることは、今もその名残として受け継がれています。
小野神社参道 |
小野神社拝殿 |
小野神社本殿 |
小野氏家系図
境内に「小野氏」の家系図がありました。
境内中央には、「小野篁神社」があります。神社の由来書によります。
「学問・使節の神」とあります。
「小野篁(802年~853年)」は、参議岑守の子で漢学者であり歌人であり、最後は公卿として参議、左大弁などを勤めました。
承和元年(834年)「遣唐副使」を命じられ、承和3年(836年)に出発しましたが、暴風雨にあって遣唐使の目的をあきらめます。承和5年(838年)再度「遣唐副使」に任じられましたが、大使「藤原常嗣」との折り合いが悪くなり「渡唐」を取り止めました。このとき「西道揺」を作って「遣唐使」の役を風刺したため、嵯峨上皇の怒りにあい、「小野篁」は「隠岐島」へ島流しとなりました。3年後嵯峨天皇から許されて帰京し、昇進を重ねて※参議・従三位となりました。
※注「参議」は太政官の官名で、中納言に次ぐ要職でした。
「小野篁」は漢詩文に優れ、和歌は「古今集」に6首投稿しています。
百人一首の「篁」の歌
「わたの原 八十島かけて漕ぎいでぬと 人には告げよ 海士の釣り船」
「小野篁」には逸話も多数残っています。その一つは「篁」は昼間は朝廷で官吏を、夜は冥府で「閻魔大王」のもとで裁判の補佐をしていたものです。「篁」が冥府との行き帰りの際に、入口にしていたのは六道珍皇寺(死の六道入口)で、出口にしていたのは京都嵯峨の福正寺(正の六道出口)であったとされています。
京都の「千本ゑんま堂」は、「閻魔大王」と親交のあった「小野篁」が開基したと云われています。
「小野篁神社」の社殿は古墳の上にあり、建物は南北朝時代の暦応年間(1338年~1342年)に建立されており、重要文化財に指定されています。
「学問・使節の神」とあります。
「小野篁(802年~853年)」は、参議岑守の子で漢学者であり歌人であり、最後は公卿として参議、左大弁などを勤めました。
承和元年(834年)「遣唐副使」を命じられ、承和3年(836年)に出発しましたが、暴風雨にあって遣唐使の目的をあきらめます。承和5年(838年)再度「遣唐副使」に任じられましたが、大使「藤原常嗣」との折り合いが悪くなり「渡唐」を取り止めました。このとき「西道揺」を作って「遣唐使」の役を風刺したため、嵯峨上皇の怒りにあい、「小野篁」は「隠岐島」へ島流しとなりました。3年後嵯峨天皇から許されて帰京し、昇進を重ねて※参議・従三位となりました。
※注「参議」は太政官の官名で、中納言に次ぐ要職でした。
「小野篁」は漢詩文に優れ、和歌は「古今集」に6首投稿しています。
百人一首の「篁」の歌
「わたの原 八十島かけて漕ぎいでぬと 人には告げよ 海士の釣り船」
「小野篁」には逸話も多数残っています。その一つは「篁」は昼間は朝廷で官吏を、夜は冥府で「閻魔大王」のもとで裁判の補佐をしていたものです。「篁」が冥府との行き帰りの際に、入口にしていたのは六道珍皇寺(死の六道入口)で、出口にしていたのは京都嵯峨の福正寺(正の六道出口)であったとされています。
京都の「千本ゑんま堂」は、「閻魔大王」と親交のあった「小野篁」が開基したと云われています。
「小野篁神社」の社殿は古墳の上にあり、建物は南北朝時代の暦応年間(1338年~1342年)に建立されており、重要文化財に指定されています。
小野篁神社再掲石段 |
小野篁神社 |
小野篁神社の扁額 |
「小野篁」の歌碑
「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと ひとには告げよ 海士の釣舟」(百人一首)
その他の摂社
八幡神社・松尾神社
境外摂社の「小野道風神社」については、別投稿でご紹介させていただきます。
小野小町の供養塔
境内には「小野小町」の供養塔があります。「小野小町」は、平安前期の女流歌人で「小野篁」の孫とされていますが、年齢的には「篁」の娘とする説もあります。
「小町」の正没年は天長3年(826年)~昌泰3年(900年)頃と考えられていますが詳細は不明です。
「小町」は「篁」が隠岐島への島流しから召喚され、本位に復した承和9年(842年)17歳で宮中に入り、文徳天皇の更衣(後宮女官)であったとも云われています。当時の有名歌人らと親交があり上級女官として長年宮中に仕えました。
「小町」の歌は、後の紫式部らの王朝女流文学者の草分けとなりました。
「小町」の代表的な歌
「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世に振る ながめせしまに」
(百人一首)
資料画像(by Wikipedia) |
小野小町の供養塔 |
境内のパワースポット
「パワーの木」
「夫婦円満の木」
椎の木が檜を抱き込んで佇んでいるように見えます。
「御神木」
「御神田」
御神田で採れた餅米を水に浸してそのまま突き固め、藁のつつみに入れ納豆のように包まれたこれを「しとぎ」と云い、これを神前に供え祭典後はこれを注連縄を渡した青竹を捧げ持って地区内を「しとぎ」を吊り下げて礼拝し、五穀豊穣・天下泰平を祈る祭です。
「小野篁神社」
そしてなんといっても、最強のパワースポットは「小野篁神社」でしょう。小野篁は「この世」と「あの世」を行き来して、あの世の入口の裁判官の「閻魔大王」とも親交があった人物です。しかも社殿は古墳の上に建っている。ここは「小野篁神社」にしっかりとお詣りして、パワーをいただきましょう。
小野篁 資料画像(by Wikipedia) |
境内のその他の建物
手水舎 |
社務所 |
社務所 授与所(無人) |
「小野道風神社」と唐臼山古墳の頂上の「小野妹子神社」については、別の投稿でご紹介させていただきます。
アクセス
JR湖西線和邇駅下車 徒歩15分
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