2019年9月24日火曜日

京都の「真如堂」(その3 石薬師地蔵 元三大師堂など)

前回の京都の「真如堂」(その2 殺生石 鎌倉地蔵尊 京都・映画誕生の碑など)では、「真如堂」の境内の見どころスポットをご紹介させていただきました。
「真如堂」の境内は、歴史の舞台を垣間見ることができる見どころスポットがまだまだいっぱいあります。

真如堂総門

 阿弥陀如来露仏 


本堂の右脇に「阿弥陀如来露仏」が安置されています。台座には「木食正禅(もくじきしょうぜん)造立」と彫られています。
「木食」とは、出家した後籠や野菜を食べずに、木の実・山菜のみを食べて修行することで、このような修行僧を「木食上人」と云います。

「木食正禅養阿上人(もくじきしょうぜんようあしょうにん)」は、江戸中期の木食上人の一人です。幼名を茂三郎といい丹波の国保津村(今の亀岡市)の出身で先祖は遠江(今の静岡)の出身で「徳川家康」に仕えた武士でしたが、父親の代に本家が断絶し跡目相続もならず、茂三郎は武士の道をあきらめて出家得度し「朋厚坊正禅」と改名しました。

正徳元年(1711年)に高野山の木食上人恵昌について、木食修行を修めた「正禅」はその後「四宗兼学」し、念仏聖の行を実践していきました。その後一乗谷の狸谷の石の洞に籠りますが、「正禅」を慕う民衆が次々と狸谷を訪れました。

狸谷を降りた「正禅」は、「真如堂」の阿弥陀如来像を造立すべく公家や民衆に寄進を募って廻ります。「クラウドファウンディング」のはしりでしょうか。こうして造立されたのが「阿弥陀如来露仏」です。





 たてかわ桜 


「たてかわ桜」は、江戸幕府三代将軍徳川家光「春日局」が、「真如堂」に墓所がある父「斎藤利三」の菩提を弔うために植えたものです。昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で倒木したため、接ぎ木をして現在の姿になっています。
残念ながら訪れたのが、夏の終わりでしたので、桜の花は見られませんでしたが

※ 「斎藤利三」については、前回の投稿 京都の「真如堂」(その2 殺生石 鎌倉地蔵尊 京都・映画誕生の碑など)でご紹介させていただきましたので、是非そちらもご覧ください。


たてかわ桜の「たてかわ」は「縦皮」ということで、樹皮が松の木の皮のように縦になっていることから付けられた名ということです。

 萬霊堂 


「真如堂」は、財閥の三井家の菩提寺で、三井高利ら三井一族の墓石が並んでいます。
「萬霊堂」は、三井家によって建立され、地蔵菩薩を中心に有縁無縁の精霊を祀っています。「萬霊堂」の周囲には季節には「紫陽花」の花が咲きます。青もみじと紫陽花のコントラストが楽しみです。

萬霊堂

萬霊堂と青もみじ

 石薬師堂 


「石薬師堂」について、堂前の由緒書を要約します。

「石薬師堂」のご本尊は、伝教大師(最澄)作とされる「石薬師如来」です。

平安遷都の頃、大地より光沢のある蓮華のつぼみに似た大きな石が湧き出しました。桓武天皇は、その石の上にお堂を建立され、石の頭で掘った「薬師如来」を安置されたということです。その後、禁中(宮中)では数々と不思議なことが起こったと云います。

時は下って、正親町天皇(1557年~1585年在位)は今出川内府に命じ、「真如堂」の僧「全海」に命じてこの石薬師を本尊として祀らせました。当時「真如堂」は、寺町今出川南の公家屋敷の中にありましたが、元禄年間の移転に伴い、石薬師も他の堂宇とともに現在地に移されました。現在の建物は昭和41年、東山五条の金光院より寄進・移転されたものです。旧地には今も「真如堂前町」「真如堂突抜町」「石薬師通」などの地名・通り名の他、京都御苑の東北の門に「石薬師御門」の名が残っています。

「薬師如来」は、東方浄瑠璃世界と呼ばれる浄土の教主で、あらゆる現世利益を与えて下さり、とりわけ病を治してくださる仏さまとして信仰を集めています。

堂前の木々はサンシュユで、3月頃黄色い花を一面に咲かせ、1~2cmほどの楕円形の実を付けて秋に赤く熟すそうです。

石薬師堂
石薬師堂

 本堂から書院へ続く廊下 


右側の建物は書院

 伝教大師(最澄)巡錫之像 

「本堂」の左脇に「伝教大師巡錫の像」が建てられています。「伝教大師」が東国を巡り上野国・下野国に宝塔を建てたときの姿をイメージした像ということです。平成2年に建てられたということです。



 元三大師堂 

堂宇は元禄9年(1696年)に建立されました。「おみくじ」の創始者と云われる比叡山延暦寺第18代座主「慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)(元三大師)」をお祀りしています。
本尊は「元三大師(がんさんだいし)」の画像で、脇侍は「地蔵菩薩」「長寿不動明王」です。

「元三大師堂」では月命日3日に護摩供法要をしています。

元三大師堂



 赤崎弁財天 

「赤崎弁財天」について、堂前の由緒書を要約します。

本堂の左脇の池の中之島の小さな祠にお祀りしてあるのが「赤崎弁財天」です。「真如堂縁起」には、永正16年(1519年)、美作国大葉郡真島庄(今の岡山県真庭市の一部)の住人で、「善阿称」という念仏行者が、真如堂の堂供養の費用を勧進(寄付を募ること)するために、周防国(今の山口県東南半)の「赤崎弁財天」の宝前において断裁木食し、一心に祈念しました。すると巨額の勧進が得られ、無事に供養の儀式を執行することができました。その報恩感謝のため、後に「赤崎弁財天」を勧請して「真如堂」境内にお祀りしたと記されています。




池の中島の祠が「赤崎弁財天」

 千體地蔵堂 

「千體地蔵堂」の本尊の地蔵菩薩の背面に高さ10cmほどの小さい彩色された地蔵千体が安置されています。




 俳人去来の句碑 

「松尾芭蕉」の門人「芭門十哲」の一人「向井去来(むかいきょらい)」は、元禄7年(1694年)「真如堂」で行われた信濃・善光寺如来の出開帳法要に参列しました。境内は有難い如来を一目拝みたいと人々で溢れ、お念仏の響きに満ちていました。その時に詠んだ句が次の句です。

「涼しさの 野山に満つる 念仏かな」





 去来の寺 覚円院 

「真如堂」の塔頭寺院の一つ「覚円院」は、「去来寺」と呼ばれています。
俳人「向井去来」は、長崎に生まれ8歳の時父とともに京都に移住して、市内中長者町附近に住み父兄の家業である医術を助けました。

後に俳人「松尾芭蕉」に師事して、芭蕉の門人の中のトップ集団「芭門十哲」の一人と呼ばれ、俳諧奉行とも呼ばれました。

「去来」の向井家が「覚円院」の檀家であったため、向井家の墓が「覚円院」の墓所にあります。当初「去来」の墓は盛り土であったため、既になくなっており現在の墓は再建されたものです。

覚円院
覚円院境内

 塔頭寺院 

塔頭寺院は、「覚円院」の他に、「東陽院」「松林院」「吉祥院」「法輪院」「理正院」「喜運院」「法伝寺」があり、それぞれに趣きのある佇まいをしています。


「真如堂」は、見どころたっぷりで、春夏秋冬どの季節にお参りしても趣きのある自然の景色が迎えてくれる寺院です。是非訪れてお参りされることをお勧めします。

アクセス
JR京都駅前から京都市バス5系統(銀閣寺・岩倉行き)乗車 
JR京都駅前から京都市バス17・100系統(急行・銀閣寺行き)乗車 
錦林車庫バス停下車 徒歩8分(結構急な坂道を登ります)

阪急電鉄河原町駅から京都市バス5系統(銀閣寺・岩倉行き)乗車
阪急電鉄河原町駅から京都市バス17系統(銀閣寺行き)乗車
錦林車庫バス停下車 徒歩8分(結構急な坂道を登ります)


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