2019年9月23日月曜日

京都の「真如堂」(その2 殺生石 鎌倉地蔵尊 京都・映画誕生の碑など)

前回の 京都の「真如堂」(その1本堂と三重塔にかかる青もみじは圧倒的です) では、「真如堂」の青もみじについてご紹介させていただきました。
「真如堂」の境内は、歴史の舞台を垣間見ることができる見どころスポットがいっぱいあります。


今回は「真如堂」境内の見どころスポットをご紹介させていただきます。

 殺生石 鎌倉地蔵尊 


「殺生石 鎌倉地蔵尊」の地蔵堂は、参道脇の三重塔の足元に建っています。
現代病の一つ「こころの病」が治るなどのご利益が、信仰の深さに応じてあると云われています。お地蔵様におすがりするのも一つの方法かなと思います。

鎌倉地蔵堂・左は三重塔の基壇
「殺生石 鎌倉地蔵尊」について、堂前の由緒書を要約します。

1300年前、中国に白面金毛九尾(金色の毛におおわれて九つの尾をもつ)の狐がいて、美女に変身して皇帝を虜にして国を傾けさせましたが、正体を見破られ逃げて日本に渡りました。
「白面金毛九尾」の画像検索結果
白面金毛九尾狐(資料画像Wikipedia)
狐は日本でも美女に変身して「玉藻前(たまものまえ)」という美女に変身して、鳥羽上皇の寵愛を受けましたが、陰陽師「安部泰観(安部晴明の子孫)」に見破られ、東の空に飛び去って下野国(今の栃木県)那須野原に逃れました。

その後も悪事を働く狐のことを聞いた鳥羽上皇は、上総介と三浦介という二人の武将に妖狐退治を命じました。神前でお告げを受けた二人のうち上総介の放った矢は狐を射抜き、更に三浦介がとどめをさして見事に妖狐退治を果たしました。そして、悪狐の魂は石と化しましたが、なおも悪霊によって近づく生き物を殺すため「殺生石」と呼ばれ恐れられていました。

これを知った「玄翁(げんのう)禅師(室町期の曹洞宗の僧)」は、「殺生石」を柱杖で叩いて割り、悪霊を成仏させ、三つに割れた石片の一つで地蔵菩薩を彫り、鎌倉にお堂を建てて祀りました。(金槌のことをげんのうと呼ぶのはこの逸話がもとと云われています。)

江戸初期、この地蔵を篤く信仰していた、「甲良豊後守(日光東照宮などを造営した幕府の大工の棟梁)」の夢の中にこの地蔵尊が現われ、自分を衆生済度の霊場の真如堂に移しなさいとお告げがありました。このお告げに従い豊後守は地蔵尊を真如堂に遷座しました。

「鎌倉地蔵尊」の名は、当初鎌倉に安置されていたことによります。

「鎌倉地蔵尊」のご利益は、「家内安全」「福寿」「延命」などの他に、「無実の罪をはらしたり」「こころの病が治る」などが信仰の深さによってあるのだと云われています。






 新長谷寺 


「洛陽三十三所観音霊場」第5番札所で、明治時代に神仏分離により吉田山の神社から移築されました。長谷寺の十一面観音像を模した観音像が祀られています。


「新長谷寺」について、堂前の由緒書を要約します。

この話は「浦島太郎」伝説にも見られる、亀を助けて恩返しされるという話です。

平安前期、「藤原高房卿」が西国に幼子を連れて行く途中、漁師が大亀を殺そうとしているのに出会い、高房卿はこれを助けました。翌朝船出しましたが、途中で海が荒れ子供が海に落ちてしまいました。大波の中、先日助けた大亀が背中に子供を乗せて子供を救い届けてくれました。高房卿はこれは信仰している奈良の長谷観音のお陰と考え、更に信仰を深めました。

その後、子供は成長して「中納言藤原山蔭卿」となり、妻と一子の暮らしを送っていましたが、妻が病死したため後妻を迎えました。後妻は実子が生まれてから先妻の子がうとましくなり、大宰府長官となった山蔭卿とともに大宰府へ赴任する際に船上から先妻の子を海へ突き落としました。

山蔭卿が子供を捜し悲嘆にくれていると、以前自分を助けてくれた大亀が、またも子供を助け届けてくれました。「このまま家に戻してもこの子は不幸になる」と考えた山蔭卿は子供を高僧に預け僧侶にしてもらいました。

山蔭卿は二度までも救ってくれた大亀は観音様の化身に違いないと感謝し、奈良の長谷寺の十一面観音像を写した像を作り、山蔭卿が奈良の春日大社を勧請した吉田神社の境内に「新長谷寺」を建立し「十一面観音像」をお祀りしました。陽成天皇の時代でした。

「中納言藤原山蔭卿」は、「四条流包丁式」の創始者として知られ、「包丁の神・料理・飲食の神様」として「吉田神社」の境内の「山蔭神社」に祀られています。「山蔭神社」には、京都の有名な料理屋さんが多く寄進をしておられます。

時は下って明治時代、「新長谷寺」は廃仏毀釈の際に「真如堂」境内に移転されました。




 京都・映画誕生の碑 


日本の映画産業が本格的になるのは、「日本活動写真株式会社(日活)」創業以後のことですが、その中心になったのは初めて時代劇映画を手掛けた京都の「横田商会」でした。横田商会で時代劇映画の生みの親「牧野省三(まきのしょうぞう)」によって見出された「尾上松之助(目玉の松ちゃん・おのえまつのすけ)」などの人気俳優もこの中から世に出ました。

「京都の映画誕生と真如堂」について、本堂の前に設置された「京都・映画100年宣言」プロジェクト推進協議会の記念碑に掲げられた由緒書を要約します。

1895年(明治28年)フランスのリュミネール兄弟が発明した映画(シネマトグラフ)は、2年後の1897年(明治30年)に実業家稲畑勝太郎が日本に持ち込み、初めて上映されたのが京都の地で、当初の映画は今日でいう記録映画でした。

1908年(明治41年)横田商会の創業者「横田永之助」の依頼を受けた「牧野省三」はシネマトグラフを用いて歌舞伎の劇映画化に挑戦しました。京都に生まれた歌舞伎という伝統芸能を映像という新しい時代の科学技術と結び付け京都の映画を誕生させたのです。スクリーン上で動く映像は観る人々を魅了しました。

以来京都では、多様で大量の映画が創られることとなり、これを支えたのは、京都の伝統芸能の力、伝統工芸の力、歴史都市京都の景観等々、まさに京都の文化力に培われたものです。1世紀の時を経て、京都の文化となりました。

「牧野省三」が第一作「本能寺合戦」を「真如堂」境内を本能寺に見立てて撮影したということで、この「真正極楽寺 真如堂」境内に記念碑を建てた記念するということです。
平成20年(2008年)10月1日に建てられました。


昔の映画のカメラの形をモチーフにした記念碑が、本堂の前に設置されています。「牧野省三」は日本初の時代劇映画「本能寺合戦」を「真如堂」の境内で撮影したのですね。

「真如堂」には、「本能寺合戦」のテーマとなった「本能寺の変」で命を落とした、明智方の重臣「斎藤利三」の墓もありますので、運命的なものを感じますね。


 斎藤利三と海北友松の墓 


「真如堂」の墓所には、「明智光秀」が「織田信長」に対して謀反を働いた「本能寺の変」で命を落とした明智方の重臣「斎藤利三(さいとうとしみつ)」の墓があります。その隣には「利三」と生前に親交が深く「本能寺の変」の後、晒されていた「利三」の首を奪い取って「真如堂」に葬った絵師「海北友松(かいほうゆうしょう)」の墓があります。

手前が「斎藤利三」の墓、奥が「海北友松」の墓

「斎藤利三」は、「斎藤道三」とは別の系譜ではあるが、美濃斎藤家の一族で、「明智光秀」の縁戚関係から「光秀」に仕えることになりました。「光秀」に重用されて後には明智家の筆頭家老として用いられました。「光秀」の丹波平定後は1万石を与えられ、丹波黒井城主となり、氷上郡統治にあたりました。

天正10年(1582年)、光秀が「本能寺の変」を計画すると「利三」は一旦反対しましたが、主君の命には逆らえず主謀者の一人として参加しました。

「本能寺の変」では「信長」を討った後、「山崎の合戦」で「秀吉」に敗れ、滋賀の堅田まで逃走して捕縛され、秀吉の命令で京都の六条河原で斬首され、首を晒されました。享年49歳でした。
堅田の利三 資料画像(Wikipedia)
「利三」は丹波黒井城主となったとき、滋賀の「坂本城」から妻のお安と子供たちを呼び寄せ、天正7年(1579年)に生まれたのが「春日局(幼名お福)」です。お福は三歳までこの地で育ち、亀山(京都の亀岡)の地に移った後、波乱万丈の人生を送りました。

「春日局」の画像検索結果
春日局 資料画像(Wikipedia)

「海北友松」は、安土桃山から江戸初期にかけての絵師で、「海北派」の始祖です。滋賀の湖北の浅井氏の家臣「海北綱親」の五男として生まれ、京都の東福寺で修行し、このとき狩野派に学んだと云われています。還俗して海北家の再興を目指しましたが、「豊臣秀吉」に画才を認められたことから、武門を去り晩年は画業に専念しました。

交流のあった「斎藤利三」を謀反人でありながら手厚く「真如堂」の墓所に葬りました。
一説では貼り付けにされていた、利三の首を「友松」自身が槍を振るって侵入して奪い取ったとも云われています。


「真如堂」にはまだまだ見どころスポットがあります。次回は「石薬師堂」「阿弥陀如来露仏」などご紹介させていただきます。

アクセス
JR京都駅前から京都市バス5系統(銀閣寺・岩倉行き)乗車 
JR京都駅前から京都市バス17・100系統(急行・銀閣寺行き)乗車 
錦林車庫バス停下車 徒歩8分(結構急な坂道を登ります)

阪急電鉄河原町駅から京都市バス5系統(銀閣寺・岩倉行き)乗車
阪急電鉄河原町駅から京都市バス17系統(銀閣寺行き)乗車
錦林車庫バス停下車 徒歩8分(結構急な坂道を登ります)


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