2019年8月29日木曜日

京都の清浄華院は慈覚大師が禁裏内道場として開いたのが始まりです

京都御所の東側、寺町通り沿いに「清浄華院(しょうじょうけいん)」はありました。清浄華院という名前は、「浄土に咲く蓮の華のように、清らかな修行ができる場所」という願いを込めて名付けられました。

清浄華院 総門

 清浄華院 由緒  (引用:清浄華院ホームページ)

寺 号 清浄華院(呼称は院号のみで、山号や寺号はない)
宗 旨 浄土宗
御本尊 阿弥陀如来
創 建 貞観2年(860年)
創 起 清和天皇

清浄華院は一般には浄華院(じょうけいん)と呼ばれています。貞観2年(860年)清和天皇の勅願により慈恵大師円仁が創建した禁裏(宮中)内道場に始まります。当時は円(円教、天台)・密(密教)・戒(円頓戒)・浄(浄土教)の四つの学問を学ぶ四宗兼学の道場であり、また国家泰平と鎮護国家の道場でもありました。

承安5年(1175年)浄土宗の開祖である法然上人は比叡山を去って、東山吉水の地に草庵を構えられ、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることこそ、唯一の救いの道であると説かれました。法然上人の教えは、道俗・身分を問わず広まっていき、その教えに触れようとしたのは、時の天皇も同様でした。後白河天皇は法然上人を宮中に呼び寄せ、教えを請い、高倉天皇・後鳥羽上皇とともに法然上人を戒師として円頓戒のご受戒も受けられました。

後白河天皇は、法然上人の教えに大変感動され、参内の宿舎とされていた当道場を法然上人に賜りました。これにより、清浄華院は浄土宗に改められ、以後念仏道場としての道を歩むこととなりました。

このため、慈覚大師を創立開山、法然上人を改宗開山として仰いでいます。

 法然上人の御影をお祀りしている御影堂 


大殿(御影堂)





 [ミニ知識] 

慈恵大師円仁
慈恵大師円仁(794年~864年)は最後の遣唐使として唐に渡り、苦労して仏教を学び、帰国に際しては多くの経典を持ち帰り、日本の密教の発展に尽力しました。後に第三代比叡山延暦寺天台座主となりました。

法然上人
法然上人(1133年~1212年)は平安時代末期から鎌倉時代初期の僧で、比叡山で天台宗の教学を学びました。承安5年(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、後に浄土宗の開祖と仰がれました。


清浄華院には、佛教大学別科「山学寮」があり学生たちが修行にいそしんでいます。

    左は阿弥陀如来を安置する阿弥陀堂 右のコンクリート建物は山学寮

室町時代には、皇室や公家・将軍家の帰依を得て、浄土宗の筆頭寺院としての地位を築きましたが、応仁の乱(1467年)により一時荒廃し、天正元年(1572年)に豊臣秀吉の寺町建設によって現在地に移転しました。その後も皇室の帰依を受け、境内墓地には皇族の墓が多数営まれています。

幕末には御所警備を担当した会津藩・薩摩藩・徳島藩・熊本般の宿舎の一つとなり、会津藩主で京都守護職となった松平容保が半年間過ごしています。著名人の墓も多くあります。

寺宝として、普悦筆「阿弥陀三尊像」(国宝)、「泣不動縁起」絵巻(重文)があります。

                   寺務所

 不動堂 


清浄華院には江戸時代から不動堂がありました。宝永5年(1708年)に「泣不動尊像」の開帳が行われたのち、清浄華院の不動信仰は大変盛り上がったようで、享保年間に至ってその拠点として建てられたのがこのお堂であったようです。

江戸時代には波除不動の伝承を持つ平安時代作の不動明王立像をお祀りし、毎月不動講による百万遍念仏による供養が行われていました。「波除不動尊像」は秘仏となっています。
現在の不動堂は平成23年に再建されたもので、本尊は再建にあたり新造された「半丈六
不動明王座像」です。脇壇には「石薬師尊」と「安倍晴明公像」もお祀りされています。
堂内には護摩壇があり、毎月28日に不動講護摩会が行われています。


                   不動堂

                半丈六不動明王座像


石薬師尊

                 安倍晴明公像

                   護摩壇

 天明の大火(1788年)の犠牲者の供養塔 




 つきかげ苑 


境内には、介護老人福祉施設「つきかげ苑」があります。

つきかげ苑

                  つきかげ苑

アクセス

京都市バス・京都バス 京都府立医大病院前下車 徒歩3分
京阪電車京都線 出町柳駅下車 今出川通を西へ寺町通りを南へ徒歩10分



0 件のコメント: