2019年8月26日月曜日

滋賀県大津市に古代たたら製鉄の「源内峠遺跡」が!

滋賀県大津市の瀬田丘陵の中央部、「びわこ文化公園」内の龍谷大学瀬田キャンパスへ向かう道路「学園道路」の途中に、古代たたら製鉄炉の「源内峠遺跡」があります。

復元された製鉄炉(1号炉)
飛鳥時代の天智天皇2年(663年)、朝鮮出兵に失敗して「白村江の戦い」に大敗した朝廷は、朝鮮半島からの攻撃に備え各地に防衛施設を構築すると同時に、天智天皇6年(667年)当時「難波宮」に置いていた都を、防衛上有利な滋賀県大津市錦織の地に「近江大津京」を構築して遷都しました。

この「近江大津京」を構築するために必要となる「鉄」の供給元であった朝鮮半島と戦をしていますので、「鉄」は自前で作るしかありません。

そこで、「鉄」を国産で生産しようとして、造られたのがここ「源内峠」で発見された「製鉄炉」跡で、7世紀後半頃から8世紀にかけて稼働していたものと推定されています。「製鉄炉」跡は全部で4基発掘されています。

復元された1号炉

2号炉と3号炉はほぼ同位置で重なって発見されたそうです。

復元された2・3号炉


復元された4号炉


「製鉄炉」はそれぞれ、長さ2.5m、幅30cm、高さ1mあまりで、約20~25年間稼働してきたものと推定され、当時の製鉄炉としては国内最大規模です。製鉄量も大規模であったと想定され、都の建物の造営に大きな役割を果たしていたのでしょう。

この「製鉄炉」が何故「近江大津宮」の建設現場から距離的に少し離れ、しかも標高も高い(標高170m)のここ「源内峠」に築かれたのかは少し謎ですが、ここから少し丘陵を下ったところに、内裏の瓦屋根の両端に乗せる鴟尾(しび)などを焼いていた登り窯の跡「山の神遺跡」も発見されていますので、この辺りの地に生産拠点を置いたことは、何か必然性があるのかも知れません。

一説では、この「製鉄炉」が木炭を使用していましたので、丘陵の豊富な森林資源を木炭として活用し、また少し丘陵を下ると琵琶湖に達しますので、船での運搬の利便性があったからだと云われています。

この遺跡は、昭和43年近くの小学校の科学クラブの児童が発見した石がきっかけとなって発見されたそうです。その後、国や県の文化財保護チームが発掘に乗り出し、大規模な製鉄炉跡であることが分かりました。

遺跡の入口には、手作りのモニュメントが設置されています。



「たたら製鉄」とは何でしょう。Wikipediaiによると、
日本の古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送るために使われる「鞴(ふいご)」のことを「たたら」と呼んでいたためにつけられた製鉄方式の名称です。砂鉄や鉄鉱石を粘土製の炉で木炭を用いて比較的低い温度で還元し、純度の高い鉄を生産できることを特徴としています。

1号炉から4号炉の復元されたものを見ていただくと、炉の下の方に穴が空いていますが、これが鞴から空気を送り込む穴です。

「源内峠遺跡」の「製鉄炉」の復元は地元の人達が力を出し合って行いました。「こんな素晴らしい遺産を埋もれさせてはいけない。なんとか後世の人達にも分かりやすい形で保存したい」との熱意から1年7ケ月をかけて手作りで復元されました。地元の人達の熱意に敬意を表したいと思います。

遺跡内には、「鉄工房小屋」と名付けられた小屋が建てられ、休憩所を兼ねて「製鉄炉の復元」写真や「ミニたたらで鉄づくり」写真の展示もされています。




「源内峠遺跡」は、「龍谷大学瀬田キャンパス」へ向かう「学園道路」の途中の曲がり角にあります。少し分かりづらいですが是非見つけてください。

信号を進むと「学園道路」です



「源内峠遺跡」のすぐ近くに「名神高速道路」が走っています。飛鳥時代の遺跡と近代的な高速道路のギャップにロマンを感じます。



アクセス
JR琵琶湖線瀬田駅下車 近江バス大学病院前行乗車 文化ゾーン前下車徒歩8分 

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