2019年5月22日水曜日

大化の改新の「天智天皇」と日本国の礎となった「近江大津京」

皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)は中臣鎌足(なかとみのかまたり)らと謀って、皇極天皇(後に斉明天皇)の御前で蘇我入鹿(そがのいるか)を殺しクーデターを起こしました。入鹿の父蘇蝦夷(そがのえみし)は翌日自宅に火を放って自害しました。「大化の改新」の始まりです。

天智天皇


その前に蘇我入鹿とは何者でしょう。
蘇我入鹿は蘇我馬子(そがのうまこ)の孫です。蘇我馬子は大臣(おおおみ)として天皇家の臣下として高い位にありました。聖徳太子らとともに崇仏派(仏教推進派)に属した馬子は、当時政権を牛耳っていた物部氏(もののべし)を滅亡させ、政権の実権を握りました。蝦夷は父馬子の「大臣」を継ぎ天皇家に次ぐ権力者として政権を牛耳り始めました。入鹿は父蝦夷の跡を継ぎ、蝦夷より権力を増し、「天皇の臣下」であるのに天皇以上に権勢をふるいました。

中大兄皇子は舒明天皇(じょめいてんのう)の第二皇子です。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)です。

蘇我入鹿を倒しクーデターに成功した中大兄皇子は、蘇我蝦夷が自害した翌日、皇極天皇の同母弟の孝徳天皇を即位させ、自らは皇太子となり、政権の中心人物として様々な改革を断行しました。これが「大化の改新」です。また他の有力な勢力は様々な手段を用いて一掃しました。

その後、朝鮮半島の百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子を送り返し、百済再興を図って白村江の戦いを起こしましたが、敗戦しました。百済救援を指揮するために九州の筑紫に滞在しましたが、斉明天皇7年(661年)斉明天皇が崩御しました。

中大兄皇子は、その後長く皇位につかず皇太子のまま称制(天皇が崩御しても即位せずに天皇して政務をとること)しました(天智天皇元年661年)。

天智天皇2年(663年)白村江の戦いで大敗を喫した後、唐に遣唐使を派遣する一方
で、天智天皇6年(667年)に近江大津宮へ遷都し、天智天皇7年(668年)ようやく即位しました。近江大津宮へ遷都したのは一説には唐や新羅が日本に攻め入ってくることを恐れた天智天皇が、背後に山が前にはびわ湖がある要害の地の大津を選んだということです。

天智天皇

天智天皇は、近江大津宮で即位して以降、白村江の戦の大敗を受けて、水城や烽火・防人を設置しました。また冠位をそれまでの19階から26階へ拡大するなど、行政機構の整備も行っています。即位後には天智天皇9年(670年)日本最古の全国的な戸籍「庚午の年籍(こうごのねんじゃく)」を作成し公地公民制が導入されるための土台を築いていきました。
天智天皇はまた、古代日本政府による最初の法令体系「近江令」を制定したとされています。「近江令」は全22巻からなる律令法典に位置付けられていますが、原本は存在しません。

天智天皇は、漏刻(水時計)を作り、天智天皇10年(671年)には大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始しました。時報を開始した671年4月25日はグレゴリオ暦で6月10日にとなりますので、後に6月10日を「時の記念日」と定められました。

また、天智天皇は百人一首の第1首
「秋の田の かりほの庵の とまをあらみ 我が衣手は 露にぬれつつ」
を詠んだとされており、天智天皇を御祭神とする近江神宮は「かるたの聖地」として、全国的に有名で、全国高校生かるた選手権など、名だたるかるた大会が行われています。最近では大ヒットしたコミック「ちはやふる」とそれを映画化して、大ヒットした舞台としても知られています。




近江大津宮の位置は、諸説ありましたが昭和49年に近江神宮に隣接した大津市錦織二丁目で行われた発掘調査で南北に整然と並ぶ大型の柱穴が発見され、宮の遺構跡の候補地ととて有力視されました。後に内裏南門の回廊部分の柱穴と明らかになりました。

内裏南門の回廊柱跡 第一地点

その後、昭和57年の第二地点の発掘調査で、内裏正殿の南東部分の柱跡と見られる柱穴ず発見され、当地が大津宮の中心的位置であることが確認されました。
内裏正殿の規模は、幅21.3m、奥行6.4mと推定されています。

 大津宮内裏正殿復元図



内裏正殿発掘地点 ハッチング部分

内裏正殿南東部柱穴跡

天智天皇10年(671年)天智天皇は病に倒れました。弟の大海人皇子(おうあまのおうじ)を後継者に指名しましたが、大海人皇子はこれを辞退し吉野へ去りました。天智天皇10年12月3日(672年)近江大津京で崩御しました。
天智天皇は、大海人皇子の代わりとして息子の大友皇子に皇位を継がせたかったのですが、天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱(じんしんのらん)において、大海人皇子が大友皇子に勝利して即位し、天武天皇(てんむてんのう)となりました。

天武天皇は飛鳥浄御原宮を飛鳥の地に建設し、天智天皇11年(673年)即位すると、都を飛鳥に遷都したため、近江大津宮は5年半の短い役目を終えた。

壬申の乱により灰塵に帰した近江大津宮を訪れた、柿本人麻呂は天智天皇と近江大津京を憐れみ歌を詠みました。

玉襷 畝傍の山の橿原の 日知の御代ゆ 生まれましし 
神のことごと 栂の木の いやつぎつぎに 天の下 知らしめじしを
天にみつ 大和を置きて あおによし 奈良山を越えいかさまに 思ほしめぜか
天離る 夷にはあれど 石はしる 淡海の国の
さざ波の 大津の宮は 天の下 知らしめしけむ 天皇の
神の尊の 大宮は 此処と聞けども 大殿は
此処といえども 春草の 繁し生たる 霞立つ 春日の霧れる
ももしきの 大宮処 見れば悲しも

歌の意は
初代神武天皇以来、都があった大和を離れ、近江の大津に都を置いた天智天皇の都と、宮殿が、今はもう草に埋もれ、霞に覆われて見えないことが悲しい

柿本人麻呂の歌碑 第一地点遺跡の地にあります

近江大津宮の置かれた大津市錦織(にしこおり)は古代よりある地名で、錦部郷と呼ばれていました。錦部郷の由来は機織り関係の技術者として朝鮮半島から渡来した錦部氏が、奈良時代以前から当地一帯を居住地としたことに由来します。



近江大津宮の北端に位置する大津京シンボル緑地には、近江大津京を詠んだ句碑や歌碑が展示されています。








わずか5年半の短い期間でしたが、当地が日本国の中枢として機能して、近江令ほか日本の礎となる制度や組織を構築したことに思いをはせてみてはいかがでしょうか。

アクセス
京阪電車石山坂本線 近江神宮前駅下車 徒歩2分




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