2019年9月27日金曜日

京都の「羅城門跡」「西寺跡」「東寺」は平安京の南の玄関口

平安京は延暦13年(794年)に長岡京から遷都され、明治2年(1869年)に江戸(東京)に遷都されるまで、1075年にわたって日本の首都とされてきました。
「羅城門」は平安京の中央大通りの朱雀大路の南の端に建てられた、都の表玄関にあたる大門です。また「西寺」は平安京の南の端に現存する「東寺」と羅城門を挟んで、東西で対に並んで建っていた仏教寺院でした。

羅城門跡

 平安京 


「平安京」は、桓武天皇の御代に長岡京にあった都を遷都して山背国(現在の京都市)に造営されたものです。桓武天皇は遷都にあたって臣下の「和気清麻呂」の建議を聞き、自ら東山の将軍塚に登って京都盆地を山上から視察して都として相応しいかどうか確かめたと云われています。

平安京は、東と西に南北に流れる桂川と鴨川という二つの河川に挟まれ、東西と北側を山に囲まれた盆地(山城盆地)の中に、南北5.2Km、東西4.5Kmの長方形の都城として造営されました。平城京や長岡京が隋・唐の長安城を模したと同様に、都の北端中央に天皇の宮城として大内裏を配置し、大内裏の南の中央の朱雀門から南へメインストリートの朱雀大路を通し、その南端に「羅城門」を配置しました。長安城が都の周囲を「羅城」と呼ばれる城壁で囲ったのに対し、平安京では羅城は建設されなかったという説が有力でしたが、「羅城門」の西方にあった私の母校で平成30年に閉校となった「洛陽工業高等学校」の跡地の文化財発掘調査で、羅城の一部が確認されたということですので、羅城は建設されていたのかも知れません。

平安京の中は、東西・南北に走る大路・小路によって40丈(約120m)四方の町に分けられていました。東西方向に並ぶ町を4列集めたものを「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼びました。このように市街を碁盤の目のように配置して朱雀大路を中心に左右対称にした都市計画を「条坊制」と云います。

道路幅は、小路でも4丈(約12m)、大路では8丈(約24m)以上あり、朱雀大路は28丈(約84m)もの幅がありました。

「桓武天皇」は平安京造営にあたり、「東寺」「西寺」以外の仏教寺院り建立を認めませんでした。当時は仏教を国家守護の目的として、建立すると考えていたため当然の方針と云えるでしょう。なお、仏教が民衆の信仰対象として広がっていくのは、空海や最澄が中国から帰国して、日本独自の教義に編集したうえ全国を辻説法などで布教して以降となります。
HeiankyouMapJapanese.svg
平安京の配置 資料画像(Wikipedia)

 羅城門跡 


「羅城門跡」は京都市南区唐橋羅城門町の九条通りを南に面してあります。現在は児童公園「唐橋羅城門公園」の中に明治28年に建てられた「羅城門遺跡」の石碑が残るのみです。

羅城門遺跡の石碑
前記の平安京の配置図と、次の現在の位置図を見比べてみてください。現在の九条通りは東寺から西では南へ向かって傾斜していっているようです。また、この位置図の羅城門の東側には「東寺」が、西側には「西寺跡」があり、左右対称に配置されていることが分かります。

「現在地」の赤色印の少し北側が羅城門跡
唐橋羅城門公園

「羅城門遺跡」の石碑の横に、京都市が設置した掲示板がありますので引用します。

平安京のメインストリートである朱雀大路の南端に設けられた、都の表玄関にあたる大門で、この門を境に京の内外を分けました。弘仁7年(816年)に大風により倒壊し、その後に再建されましたが、天元3年(980年)の暴風雨で再び倒壊した後は、再建されることはありませんでした。11世紀前半に藤原道長が法成寺造営のため、門の礎石を持ち帰った記述が「小右記」にあり、この頃には門の礎石や基壇のみの姿となっていたと思われます。

附近の発掘調査では、羅城門に関わる遺跡は見つかっていませんが、東寺の木造兜跋毘沙門天立像(国宝)や三彩鬼瓦(重要文化財)はこの門にあったものと伝えられています。


この掲示板の中にも「羅城門」の想像図が描かれていますが、Wikipediaの資料写真に復元模型の写真がありましたので、参照します。
ファイル:180427 Model of Rajōmon gate at Kyoto station.jpg
資料写真(Wikipedia)

「羅城門」は、後世には「羅生門(らしょうもん)」とも呼ばれました。

「羅生門」は、今でこそひっそりと忘れ去られたようになっていますが、かつては文学作品や映画の舞台となっています。
「芥川龍之介」は短編小説「羅生門」で荒れ果てた羅生門を舞台に、下人と死人の髪の毛を抜き取る老婆とのやり取りを通して、人間の本質を描こうとしました。また「巨匠黒澤明監督」は、「三船敏郎」主演の映画「羅生門」で、これも荒れ果てた羅生門を舞台に人間のエゴイズムを描いて、ヴィエネツイア国際映画祭金獅子賞とアカデミー名誉賞を受賞しました。

 西寺跡 

平安京にあって「東寺」「羅城門」を挟んで東西対象に建立されていた「西寺」は、現在京都市南区唐橋西寺町の「唐橋西寺公園(西寺児童公園)」の中に講堂の基礎部の土壇が残り、その中には一部の礎石を残すのみとなっています。

中央の盛り上がった部分が講堂跡
講堂の土壇
講堂土壇上部の「史蹟西寺跡」の石碑と礎石

「史蹟西寺跡」の石碑には、史跡名勝天然記念物保存法に依り大正十年三月内務大臣指定と刻まれています。


「唐橋西寺公園(西寺児童公園)」の中に、京都市が設置した掲示板がありますので引用します。

西寺は、平安京への遷都から間もない延暦15年(796年)頃から、平安京の入口にあたる羅城門の西側に東側の東寺(教王護国寺)と対称に造営された官寺です。金堂、講堂(屋根には緑釉瓦が葺かれていました)を中心として南大門、中門、五重塔、僧坊、食堂などの建物が立ち並び、国家の寺として隆盛を誇っていました。しかし、西寺は東寺に比べて早くから衰え、天福元年(1233年)には塔も焼失し、以後は再興されることなく地中に埋もれてしまいました。昭和34年以来、数多くの発掘調査が実施されて、建築物やその屋根に葺かれた瓦、使われていた土器などが次々と発見され、この周辺の地下に平安時代の伽藍がほぼそのまま眠っていることが明らかになりました。

かつての寺域は、東西二町(約250m)南北四町(約510m)に及び、僧坊・講堂・金堂・中門などの主要伽藍跡は、現在この説明板の立つ唐橋西寺公園(講堂跡が公園中央に土壇として残る)から、南の唐橋小学校にかけて見つかり、今も地下に保存されています。

これらは平安時代初期の寺院として貴重なだけではなく、東寺とともに平安京を復元するうえでもたいへん重要な遺構です。この貴重な遺跡を後世に継承するため、近隣の住宅地においても、建て替え等の際には地下の遺跡を痛めないよう細心の注意が払われています。


次の写真は現在の西寺跡(南西上空から)です。(京都市の掲示板より)


北西側から講堂跡の土壇を撮影しました。


「西寺復元模型」です。七堂伽藍を備えた立派な寺院です。

Slika:西寺復元模型.jpg
資料映像(Wikipedia)
弘仁14年(823年)、嵯峨天皇は「東寺の管理を空海(弘法大師)」に、「西寺の管理を守敏(しゅびん)」に委ねました。東寺は真言密教の根本道場として発展したのに対し、西寺は全国の寺院や僧尼を統括する施設が置かれ、官寺として発展しましたが、国家財政の破綻とともに西寺は衰退していき、やがて風水害や火災でも修復されることなく跡形もなくなっていきました。

建立当初の「西寺」は「東寺」とほぼ同じ規模の寺院でしたので、現在の「東寺」の一部を見て、東寺の様子を想起してみてください。

 東寺 

「東寺」のご紹介は、別の投稿でさせていただくこととして、現在の「東寺」の様子を一部見ていただいて、「西寺」の当時を想像していただきましょう。

南大門と五重塔
南大門と掘に掛かる橋
南大門
金堂
東側土塀

遺跡を巡ることによって、平安京の豪華な都の様子とその後の栄枯盛衰のを垣間見ることができました。皆さんも機会があれば巡られてはいかがでしょうか。

アクセス
JR京都線 西大路駅下車 徒歩10分から20分
近鉄電車京都線 東寺駅下車 徒歩10分から20分




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