2019年8月19日月曜日

明智光秀は大津市坂本の地に豪壮な城「坂本城」を築きました

滋賀県大津市下坂本に、天下の謀反人と後世まで語り継がれた「明智光秀」が築いた「坂本城」を偲んで造られた「坂本城址公園」があります。実際の「坂本城」はこの公園の少し北の琵琶湖岸に築かれていました。

公園に建つ「明智光秀」像


「明智光秀」は、「美濃国」(今の岐阜県南部)の「明智城」(岐阜県可児市広見の旧明智荘)に生まれたと言われています。生年は享禄元年(1528年)説が有力です。身分は清和源氏の名門土岐支流の明智氏であったとされています。しかし光秀の幼少期から青年期にかけては謎が多く、出生地についても6箇所ほど説があるそうです。

その後、光秀は美濃の「斎藤道三」に仕えた後、越前の「朝倉義景」に仕え、そのころ(永禄8年1565年頃)現在の滋賀県高島市安曇川に在った「田中城」を拠点に活動していたと見られています。

当時足利幕府は末期となっており、第十三代将軍足利義輝が暗殺され義輝の弟義昭は若狭の国に逃れました。義昭は自らを征夷大将軍とするよう各地の武将に働きかけましたが願い叶わず織田信長に頼りました。ところが、義昭は信長にも不信を募らせ越前の朝倉氏を頼りました。光秀が義昭と接触を持ったのはこの頃と言われています。その後義昭は、光秀を通じて信長に上洛して自分が征夷大将軍につけるよう要請しました。

その後、光秀は義昭と信長の両属の家臣となり、永禄11年(1568年)義昭の上洛に加わりました。義昭は足利幕府最後の征夷大将軍となりました。光秀40歳の時です。


ファイル:Akechi Mitsuhide 5.jpg

光秀は信長の元で功績を挙げつつ出世を果たし、元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちでは中心実行部隊として活躍を果たし、後に居城とする坂本付近の反対勢力にも焼き討ちを行っています。この武勲により信長から坂本を含む滋賀郡を所領として与えられ、間もなく「坂本城」の築城に取り掛かりました。

完成した「坂本城」は、日本で最初の石垣と瓦葺の天守を持つ城で、大天守と小天守があったとされ、それはそれは豪壮華麗なもので、「信長の安土城に次いで並び称されるであろう」とイエズス会宣教師のルイス・フロイトも記しています。

「坂本城」がこの地に築城されたのは、この地が東国からの物資の上陸地点であったことと、坂本と比叡山の繋がりを断ち切るためであったとされています。

公園内の地図には「坂本城」の位置が記されていますが、城内に琵琶湖から水を引き入れ、内堀・中堀・外堀の3層構造の堀を有していました。



光秀は、「坂本城」築城後は城下の治政に努め、途中丹波の国の平定で国元を空けることはあっても、天正10年(1582年)の本能寺の変の後、55歳の年に「三日天下」で終わり、京都の山科の小栗栖で首を取られるまで「坂本城」の城主として、この城を守り続けてきました。

公園内には「光秀の意地」と題する歌手「鳥羽一郎」の曲の石碑があります。
著作権上全部は出せませんが、「一寸の虫にも五分の魂 ・・・ わしは主を間違えたようじゃ」 光秀の無念を詠っています。

「光秀」の生涯をサラリーマンに例えると、40歳にして遅咲きの大出世をして、その後も功績を上げて、やがて一つの拠点を任される。更にトップの座も狙える位置に来ると、今度は周りから妬みや追い落としに遭い、トップからも疎まれ、55歳で梯子も外される。「出る釘は打たれる」といったところでしょうか。



「坂本城址公園」入口の石柱




公園内の風景







「坂本城」は後に大津港に築城された「大津城」に移築され、現在は跡形もありませんが、本丸跡やその他城があった痕跡地がありますので、順次訪ねてご紹介させていただきたいと思います。

アクセス
JR湖西線 比叡山坂本駅下車 徒歩約20分


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