2019年7月29日月曜日

堅田の「光徳寺」には「堅田源兵衛殉教の首」があります

「光徳寺」は大津市堅田にあり、「祥瑞寺」と「本福寺」に隣り合わせて建っています。
「蓮如上人」が山科本願寺を建立した際に、「如来大悲」への御恩に報いるため、息子「源兵衛」を斬首してその首を捧げ、更に自らの首をも捧げて殉教した漁師「源右衛門」「源兵衛」の父子がいました。「光徳寺」には、その息子「源兵衛」の墓があり、本堂には「源兵衛」の御首級(みしるし)の髑髏が安置・祀られています。


 「光徳寺(こうとくじ)」由緒 


寺 号 朝陽山(ちょうようさん) 光徳寺

宗 旨 真宗大谷派

御本尊 阿弥陀如来

開 創 延元元年(1336年)

創 建 僧覚忍 

もとは天台宗の寺院として創建されましたが、延元元年(1336年)本願寺第3世覚如の化導により、天台宗の高僧天霊が浄土真宗に改宗し、覚忍と称して開創しました。慶長7年(1602年)本願寺が東西分裂の際に真宗大谷派の末寺になりました。

山門
蓮如上人御旧跡碑
本堂の「朝陽山」の扁額
鐘楼と桜
本堂
漆喰石塀(堅田源兵衛之首の案内)
 蓮如上人と堅田源兵衛父子 

浄土真宗第八世宗主で、真宗大谷派第八代門首、大谷本願寺住職であった「蓮如上人」は、寛正6年(1465年)比叡山延暦寺から「本願寺」とともに「仏敵」と認定され、同時に延暦寺の宗徒は「大谷本願寺」を破却しました。(「寛正の法難(かんしょうの)ほうなん」と呼ばれています)

「蓮如上人」は祖像の「親鸞上人の御影(木像)」を奉じて、一旦は近江の守山の金森道場に身を寄せますが、応仁元年(1467年)大津堅田の「本福寺」に身を寄せ、「本願寺」再興を期して寺務をとりました。
その後「蓮如上人」は、文正2年(1467年)延暦寺と和議することとなり、文明元年(1469年)「蓮如上人」は三井寺境内の一部を借りてお堂を建て、祖像の「親鸞上人の御影」を安置しました。

文明10年(1478年)、「蓮如上人」は「山科本願寺」を再興できたため、三井寺に祖像の「親鸞上人の御影」の返還を求めましたが、三井寺は「人間の生首を二つを持参すれば返却する」という難題を突き付けました。この嫌がらせともいえる仕打ちに「蓮如上人」はじめ門信徒は心を痛めていました。

この状況で手を挙げたのは、「光徳寺」の門徒で堅田の漁師の「源右衛門」「源兵衛」の父子でした。息子の「源兵衛」は「如来大悲の御恩に報ずるため、自分の首を捧げる。」と父親の「源右衛門」を説き伏せました。まず父に自分の首を落としてもらい、父がその首を持参して、三井寺では父の首を落としてもらい、父子二つの首を差し出した後、随行者に「親鸞上人の御影」を持ち帰ってもらうという算段でした。

「源右衛門」が「源兵衛」の首を落としたとき躊躇したからなのか、切り慣れないからなのか、振り下ろされた刀傷は後頭部にもあったということです。

三井寺では、この父子の行為に感心して、父「源右衛門」の首を落とすことなく、「親鸞上人の御影」と息子「源兵衛」の首を「源右衛門」に返却しました。

堅田源兵衛父子の殉教として美談で伝えられていますが、宗教紛争の果ての悲しいお話です。今世界でもイスラム信徒が爆弾を腹に巻いて「アラーのために」と叫んで自爆テロを繰り返していますが、歴史は繰り返されているということを実感した逸話でした。

なお、父「堅田源右衛門」は以後諸国を巡り、備後(広島県福山市)の地で90歳で亡くなったとのことです。

堅田源兵衛父子殉教之像(後ろは蓮如上人像)
岡本一平文学碑(堅田源兵衛の逸話)
堅田源兵衛の墓(左側の石墓)
境内の案内には「後首級は本堂に安置 拝観ご希望の方は庫裏までお申し出ください」とあります。(今回は拝観しませんでしたが、髑髏を拝観させていただけるそうです。)


アクセス
JR湖西線 堅田駅下車徒歩20分

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