2019年7月12日金曜日

「敵は本能寺にあり」京都の本能寺には織田信長の廟があります

京都の法華宗本門流大本山本能寺」は、京都の寺町御池の角にあります。
「本能寺の変」は、本能寺にいた織田信長を明智光秀から襲撃され、自ら火を放ち自害した事件です。このときの本能寺は現在の位置ではなく、京都の四条西洞院にありました。

本能寺山門
 「本能寺(ほんのうじ)」由緒 

寺 号 本能寺

宗 旨 法華宗 本門流 大本山

御本尊 三宝尊

本堂
「本能寺」は日蓮上人の教えを弘める法華宗本門流の大本山です。

日蓮上人の教えは、『「法華経」の本門八品に説かれた上行所伝本因下種の「南無妙法蓮華経」に全身全霊を捧げ、本門のお題目を信じ唱えるほか私どもの成仏の道はない』というものです。

本能寺は、当初は「本応寺」という寺号で、応永22年(1415年)、京都の油小路高辻と五条坊門の間に、日隆によって創建されました。寺地は北を五条坊門小路、南を高辻小路、東を西洞院大路、西を油小路に囲まれた地でした。

応永5年(1418年)、対立する月明上人の命により本応寺は破却されました。日隆は河内、尼崎へと移った後、帰洛して大檀那の小袖屋宗句の援助で京都の内野(現在の西陣)に本応寺を再建しました。

京洛5年(1433年)、旦那如意王丸を願主に六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受けて再建し、寺号を「本能寺」と改めました。

その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、足利氏の庇護を受けました。

天文5年(1536年)、延暦寺の僧兵の焼き討ちを受け堂宇は焼失し、一時堺に避難しました。

天文6年(1537年)頃に帰洛して、日承上人(第5代邦高親王の子・皇族)が入寺して、第12代貫首となりました。

天文14年(1545年)、西洞院大路、油小路、六角小路、四条坊門小路にわたる1町に寺地を得て、伽藍が造営され、子院も30余院を擁しました。(旧本能寺小学校の北、元本能寺町附近) 
ここが「本能寺の変」の舞台となった本能寺です。

この日承の時代には諸国から種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門寺教団が成立しました。

本堂の裏に立つ日承上人の墓所(宮内庁管理)
本能寺は早くから種子島に布教していました、このことから鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深かったのです。

織田信長は、天皇家に結び付きを得たかったため皇族の日承上人に教えを請い、本能寺にたびたび滞在しました。また鉄砲・火薬の調達に利便性のため、種子島との関係の深い本能寺にたびたび滞在したとも云われています。

天正10年(1582年)、本能寺の変の兵火で堂宇が焼失しました。

天正19年(1591年)、豊臣秀吉の京都整備により、本能寺は現在の地に移転しました。元和元年(1615年)には、江戸幕府から朱印地40石を与えられ、寛永10年(1633年)には末寺92を数える大寺院になりました。

その後、天明の大火、禁門の変による火災により堂宇を焼失しました。

現在の本堂は昭和3年(1928年)に建てられたものです。

本堂内陣
日蓮上人座像

山門に立つ日蓮上人辻説法の像
本能寺は、創建からこれまで5度焼失しています。このため火という言葉を嫌い山門や標石の本能寺のの字の部首にあたるを使わない字で表示しています。
本能寺標石 能の字が違います
 本能寺の変 

来年令和2年(2020年)のNHK大河ドラマは「麒麟が来る」となっており、「明智光秀」を題材にしています。
ここ本能寺は、光秀の最後の大勝負となった「本能寺の変」の舞台です。
ドラマで「本能寺の変」がどのように描かれるのか楽しみなところです。

「明智光秀」の画像検索結果
明智光秀
織田信長は、天皇家との関係を築く目的と、鉄砲・火薬の調達の利便性もあって、当時の貫首日承上人に帰依して、本能寺を上洛中の宿舎としていました。

しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀の率いる軍勢に包囲され、襲撃されるという「本能寺の変」が起きて、その際の兵火で堂宇が焼失しました。

6月1日、光秀は丹波亀山城にいた手勢に「敵は本能寺にあり」と命令して、信長のいる「本能寺」へ13000の軍勢を進め、本能寺へ攻め入り火を放ち「焼き討ち」しました。

ここで、光秀がなぜ信長に反旗を翻し謀反を実行したのかは、説の別れるところだそうです。今でいうパワハラに耐えかねてということでしょうか。

「信長公記」では本能寺で信長が切腹したとしていますが、遺体は発見されず、その最後は明らかではありません。しかし一般的に生害地(自害した地)とされ、信長の急を聞き光秀を破って入城した織田信孝(信長の三男)は焼け跡に光秀の首と銅、光秀の手勢3000の梟首(さらし首)を晒させて供養しています。

その後信孝は、本能寺に御触を出して、信長の御屋敷として造成された焼け跡を墓所とするようにということと、離散した住僧は戻るように命じています。

「本能寺の変」の画像検索結果
本能寺の変 右の寝所ガ信長、左が森蘭丸

信長公廟
信長墓所

 塔頭寺院 

境内には塔頭寺院が7軒つらなっています。
塔頭寺院とは、本能寺に給仕する子院のことをいいます。

本堂南側の塔頭寺院
本堂南側の塔頭寺院

アクセス
京都市営地下鉄 市役所前駅下車 徒歩すぐ
京阪電車京都線 三条駅下車 西へ徒歩5分
阪急電車京都線 河原町駅下車 北へ徒歩10分
 


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