2019年6月28日金曜日

滋賀県平和祈念館で企画展「沖縄戦1945年」を見てきました

NHKのローカルニュースの特集で「滋賀県平和祈念館」の企画展「沖縄戦1945年」を紹介していましたので、行ってきました。

合わせて当日開催されていた平和祈念館主催の、大谷大学文学部歴史学科福島栄寿教授による平和講座「沖縄摩文仁の丘の慰霊塔・碑文が語りかける戦争の記憶」を聴いてきました。

私の父母は日中戦争から太平洋戦争そして終戦(敗戦)と激動の時代を生き抜いてきましたが、私は直接の戦争体験はありません。

私の父は大正10年生まれで、昭和15年頃に京都の師団から中国の中支戦線へと招集されて、長江(揚子江)を遡って中国共産党の八路軍との闘いに投入されました。父は戦闘中に敵の弾丸が右首筋から左脇腹に貫通して生死の境を彷徨ったそうですが、野戦病院から隊の病院に後退して治療後、再び戦線に復帰したそうです。日本軍が敗戦後は鹿児島に帰還して京都に戻りましたが、銃弾が肺を貫通したことの後遺症が残り、帰国後も病弱体質が続き、身体を動かすと直ぐに疲れが出て身体が思うように動かなかったりしたため、他人と同じように働けないもどかしさを感じていたようで、そのことも原因だったのかも知れないと今は思いますが、兄や姉へのしつけや体罰は相当厳しかったように聞いています。

父は戦争体験を私たち子供にはあまり話すことはありませんでした。母や祖父母には話すこともあったようですが、私は直接聞いたことは記憶にありません。やはり子供には話したくない出来事だったのかなとも思います。実際の戦場では相当悲惨な現実があり、自身の銃創はもちろんでが、戦友の死に直面したり、敵の死骸を乗り越えたりの経験もあったことでしょう。恐らくはそのような体験は、子供にも母や祖父母にも軽々に話したくないという思いがあったと思います。こんな父でしたが、毎年開催される戦友会には喜々として参加していたようです。やはり同じ苦しい悲惨な経験をした者同士では話が通じるのでしょう。

「滋賀県平和祈念館」は滋賀県のホームページでは、「県民の戦争体験を語り継ぎ、戦争の悲惨さや平和の尊さを学び、平和を願う心を育むための拠点となる施設です。」と説明されています。

滋賀県平和祈念館

「戦争体験を語り継ぐ」というのは、非常に難しいことだと思います。自分が悲惨な目にあったことを語り継ぐことはできても、人は自身が他人を悲惨な目に逢わせたことは語り継ぎたくないものだと思います。でもこのことに目を背けずに語り継ぐことも非常に大事なことだと思います。

展示物 陸軍・海軍 軍装
展示物 召集令状 いわゆる「赤紙」
展示物 応召祝
展示物 戦死通知書
展示物 戦死通知を受け取る家族

次からは日本で唯一地上戦となった「沖縄戦」の展示を紹介します。

沖縄戦は昭和20年3月26日から始まり、6月23日に終了しました。この間の日本と連合国軍(アメリカ軍)の戦死者は21万人に及びました。沖縄戦での戦死者は日本側18万8千人、連合国側は2万人でした。日本側の18万8千人のうち、沖縄県以外の正規軍の戦死者は6万5千人、沖縄県の正規軍の戦死者は2万8千人、沖縄県の民間人の戦死者は9万4千人にのぼりました。

先日6月23日に、テレビで「6月23日に沖縄県で戦没者追悼の日の式典が開催された」との報道がされていました。本土では「戦没者追悼の日」は8月15日ととしていますが、沖縄では「沖縄戦」が終了した日6月23日を戦没者追悼の日としていました。

先日NHKテレビで放送された展示物もありました。
滋賀県長浜から沖縄戦で戦死した方の「万年筆」が、沖縄県で遺骨・遺品収集を続けている方の手で摩文仁の「ガマ」の中で発見され、長浜の遺族の元に帰ったというものです。

長浜に帰った万年筆

兵士達が見た沖縄県住民の姿

次の展示は滋賀県大津市から出征して沖縄戦で戦った方が、首里から摩文仁への撤退中に
見た沖縄県住民の姿を記録しています。

摩文仁へ向かう道路は、多く兵士、住民、白衣の看護婦等が彼方、此方に亡くなっており、体も散乱してそれはすさまじいものでした。夜中に道を歩いてつまづくと死体であったことが何度かありました。

隠れられる豪のような場所は、兵士たちがほとんど占拠して、住民らが入っておれば追い出す。何回となくそのような状況を見ました。その中で住民らも弾の降る中、諦めからか頭に荷物を載せて平然と道路を移動していました。

途中で寄った民家では、同じ年ぐらいの若い娘さんが、沖縄のお菓子の黒糖とね、トマトやったかな呼んでくれはった。(食べさせてくれました。)「食べて下さい」言うてね。娘さんと部隊の3人で食べましたわ。そこで、「あんたどこも行かへんの」て聞いたんですよ。「もう、いいですよ。行ったところで死ぬのだから。」覚悟決めてはりましたわ。



日本で唯一の地上戦では、このような悲しい出来事もありました。恐らく沖縄の住民を「ガマ」から追い出した日本の兵士はこのことを語り継ぐことはできないでしょう。このことこそ「語り継ぐべきこと」だと思いますが・・・・。

世界一危険な「沖縄県普天間基地」

当日開催されていた平和祈念館主催の、大谷大学文学部歴史学科福島栄寿教授による平和講座「沖縄摩文仁の丘の慰霊塔・碑文が語りかける戦争の記憶」では沖縄県本島の最南端に位置する「摩文仁」にある沖縄県以外各県の慰霊塔に刻まれた碑文から、地上戦当事者の沖縄県以外には、この地上戦に対する思いや犠牲者に対する思いに温度差があることが分かりました。

日本本土での「戦没者追悼の日8月15日」を迎えるにあたって、滋賀県平和祈念館の展示から平和や戦争、核について考えてみてはいかがでしょう。


アクセス
・名神高速道路「八日市IC」から約10分
・JR琵琶湖線彦根駅または近江八幡駅乗り換え、近江鉄道八日市駅下車、バスで約20分
「愛東支所・診療所前」バス停下車すぐ

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