2019年7月19日金曜日

【鉄道記念物】指定 旧東海道線「旧逢坂山ずい道東口」 

国道1号線を京都から大津へ国道1号線で進み、旧東海道の「逢坂の関」を過ぎてすぐに大津市街から大津港へ向かう道が分岐します。この分岐道へ入ってすぐの左側に「鉄道記念物 旧逢坂山ずい道東口」があります。「旧逢坂山ずい道」は京都から大津へ抜ける旧東海道線を開通させるため逢坂山を掘削した、日本人の技術者と職人が主体となって設計・施工を行った我が国初の山岳隧道です。

逢坂山隧道東口
    

2019年7月17日水曜日

恋に生きた平安中期の女流歌人「和泉式部」は「誠心院」で静かに往生しました

「誠心院」は観光客で賑わう、京都の新京極通りに面して建っています。
平安中期の女流歌人「和泉式部」は、娘に先立たれた悲しみから世の無常を憂い、京都の「誓願寺」で六字名号を唱えて女人往生を悟り、「誠心院」の初代住職となって「南無阿弥陀仏」を唱えながら浄土へと静かに往生しました。

誠心院本堂

2019年7月16日火曜日

京都市南区久世の「光福寺」は京の都の裏鬼門の守り神

「光福寺」は京都市南区久世上久世町の久世橋の西側にあって、平安京の古より京の都の西南の地にあたる裏鬼門を鎮護してきました。
「光福寺」は、鳥居があり、山門があり、拝殿があるという「神仏混交」の名残りを残すお寺です。


2019年7月12日金曜日

「敵は本能寺にあり」京都の本能寺には織田信長の廟があります

京都の法華宗本門流大本山本能寺」は、京都の寺町御池の角にあります。
「本能寺の変」は、本能寺にいた織田信長を明智光秀から襲撃され、自ら火を放ち自害した事件です。このときの本能寺は現在の位置ではなく、京都の四条西洞院にありました。

本能寺山門

2019年7月11日木曜日

京都三条大橋たもとの「瑞泉寺」は関白豊臣秀次公一族の悲劇の舞台

東海道五十三次の終点、京都三条大橋のたもとにひっそりと佇む「瑞泉寺」の山門に「斬到確境」の扁額が掲げられています。これは「漸く(ようやく)確かな悟りの境地に到った人々の霊位が眠る」という意味です。
「瑞泉寺」は秀吉から謀反の疑いで切腹させられた二代目関白「豊臣秀次」と、秀次一族根絶のために三条河原で公開処刑された秀次の妻や子供、妾など39名、ならびに賜死した家臣10名の霊を弔うため建立されました。

山門の扁額

京都の「錦天満宮」の鳥居は建物突き抜け境内にはハイテクおみくじが

京都で外国人観光客に絶大な人気のある「京の台所 錦市場」の東の先には、鳥居の笠木が両隣の建物を貫通している鳥居があります。それは「錦天満宮」の鳥居です。
「錦天満宮」は、御祭神に菅原道真をお祀りし、知恵・学問・商才・招福・災難・厄除けにご利益があります。
境内には、獅子が舞ってくじを取ってくるハイテクおみくじもあります。



2019年7月8日月曜日

京都裏寺町「宝蔵寺」は江戸中期の画家「伊藤若冲」の菩提寺

京都 裏寺町の「宝蔵寺」は、近年世界的に注目を集めている江戸時代中期の絵師伊藤若冲」の菩提寺で、若冲は父母の墓石と末弟の墓石を建立しています。
「伊藤若冲」は江戸時代中期に京都の錦小路の青物問屋の長男として生まれましたが、家業は弟に任せ自身は絵画を志し、やがて京都画壇を代表する絵師になりました。


「街で見かけた名言・格言」その2 弱っている心の塗り薬

寺院巡りや街歩きのなかで見かけた「心に沁みるな」と感じた名言・格言を紹介します。

今回の「街で見かけた名言。格言」その2は、主に寺院巡りをしているなかでお寺の掲示板で見かけた名言・格言を紹介します。大学の掲示板などで見かけたものもあります。



2019年7月7日日曜日

能登半島ほぼ一周ドライブ旅その2 輪島朝市~揚げ浜塩田~軍艦島へ

平成最後の年の4月中旬、能登半島ほぼ一周の1泊2日ドライブ旅で、絶好の天候で絶好の景色を楽しんできましたので、私たちが訪ねた能登半島の見どころをご紹介させていただきます。
1日目は、能登半島の西岸を走り能登金剛の「厳門」、「上大沢・大沢の間垣の里」で日本海の荒々しさを感じ、「白米千枚田」の棚田を背景に日本海に沈む夕日を眺めて日本の原風景を改めて感動しました。
2日目は、輪島の朝市を楽しんだ後、能登半島の西岸の「塩の駅奥能登揚げ浜塩田」を経て、能登半島の東岸を走ります。途中「軍艦島」などに立ち寄って帰途につきます。

見附島 別名「軍艦島」


2019年7月4日木曜日

輪島の朝市は売り手の元気なおばちゃんとのやりとりが最高

輪島の朝市は岐阜の高山、千葉の勝浦と並んで日本三大朝市に数えられる有数の朝市です。その歴史は平安時代にさかのぼり、神社の祭礼日に魚介類、野菜等を物々交換しあっていたのが輪島朝市の起源と言われています。
以来、約千年も続く輪島の朝市は、能登地方の食文化の継承の役割と奥能登観光の要としての役割を併せ持ち賑わい続けています。